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執狼記 4-2

*動物が死ぬので閲覧注意

 彼はいささかのあいだ何が起こったのかがわからないという風情で目を見開いていました。その皿のように丸くした両目で室内の様相をじっと眺め、己の従者と狼の姿をしきりに見比べています。そのうち彼の狭く、白い額が見るみるうちに朱色を帯びていくのが、はっきりと捉えられました。

「驚いたでしょう。私も、自分で驚いているんです」

 そんな私の言葉について、相手は答えを返すことはありませんでした。私たちのあいだには氷壁に似た、厚い隔たりだけが横たわっていました。そんなさなかで、狼だけがかすかに唸っています。火種をわけたばかりのかがり火を連想させるような小さく、けれどもしっかりとした声でした。

「お叱りは受けます。あなたがもうかまわないとお考えになるまで……あなたが満足するまで延々に罰していただいても、かまいません。私は私がすべきことを、やり切りましたから」
「やり切ったというなら、肩の銃は何だ」

 まだ、お前にはしなければならないことがあるのでないのか。そう若君がそう言い切った途端、狼が高らかに咆哮しました。声は朗々と響き、もしもここに壁がなければ、どこまでも――地の果てまでも広がっていくように思われました。
 そして旗のように狼は身を翻すと、割れた窓に向かって駆け出します。次の刹那には壊れた窓をさらに突き破り、私たちの眼前から消えました。まもなく、少し離れたところで、またしても獣のわななき声が起こりました。今度は2匹。

 カリスト! 遠のいていく狼を追い、Yが窓枠を乗り越えます。私も腕の傷のために多少の時間がかかりましたが、どうにか部屋を抜けて彼の後に続きました。

 夜闇を裂いてすべてを照らし出している、月明かりの下。裏庭は戦場と化していました。猟犬と狼は距離を取りながら、打ち合わされるテニスボールの如く、入れ代わり立ち代わりに大立ち回りを繰り広げています。

 標的を追う猟犬の動きは、明らかに冴えていませんでした。本来の能力を考えるなら、とっくに相手を制圧してしかるべきです。しかし今はひっかき傷を1つ、2つばかりつけるだけで、なかなか取り押さえることはできません。むしろ猟犬の方が、生傷が多いくらいでした。
 おそらく私がぶちまけたアルコールのせいで眼鼻が利かないのでしょう。縦横無尽に駆け回る相手の身のこなしに、翻弄されているように映りました。

「カリスト!」

 狼の呼び名を叫びながら若君が2匹の近くへ駆け寄ります。ついで彼はその場に屈み込み、両手を差し伸べて、おいでと胸を開きました。もちろん、あちらには喜び勇んで彼の胸元へ飛び込む義理はありません。せっかく自由になったばかりなのに。けれども、何たることでしょうか。狼がYの方に走り寄ります。その後ろに猟犬が続きました。

 そうして1つの構図が完成しました。若君は待ち、狼は彼に向かって走り、猟犬はその後を追う。あとはYが狼を抱き止めて、自分の飼い犬をいなす……そうなるはずでした。
 しかし、現実にはこのような出来事は起こりえませんでした。狼が、突如として動きを止めたからです。

 突如として降ってわいた好機を、あの犬はけして見逃しません。若君の猟犬は標的に向かい、大きく躍りかかります。研ぎ澄まされた爪が、剥き出しになった犬歯が、巨体が狼を目がけて接近していきます。そして、もう少しで体が相手に触れるというとき。狼は疾風のようにさっと踵を返しました。

 狼の背後にいたYは首元に飛びつかれ、声を上げる間もなく、そのまま芝生の上に押し倒されました。彼は犬の下から這い出そうともがきますが、のしかかっている体の重さによってなかなか身動きは取れません。いくばくともなく、空を掻く手は地に落ちて動かなくなりました。後はじわじわと血だまりが地面に広がっていくばかりです。
 しかしそれでも、犬は攻撃を止めはしませんでした。おそらく興奮と感覚の不自由さのために、相手が誰なのかわからなかったのでしょう。さらに本来なら守るべき主を、倒すべき賊――私だと勘違いしていたのだとも思います。でなければ主人を手に掛けるなど……ましてや二度も同じ策にかかるなど、あろうはずがありません。あれほど忠誠心の堅い、賢い犬だったのに。

 そしてこの責任を、私は取らねばなりませんでした。Yが陥った状況は差し迫っていましたし、それに人の味を覚えた獣を放っておくわけにはいきません。第一にかかる事態に発生したのは、もともと私の行動が原因でした。この責任を私は引き受けなければいけません。でもあえて解じみているのを承知で述べるのならば本当に、本当に思いがけない出来事でした。

 また冷たくて、痛かった。傷ついた腕と冷え切った指先のしびれた感覚、それらを上手く扱えないこと。そして1つの存在が、世界から永遠に失われること。けれども、どうしても引き金を引かねばならないこと。以上のような複数の意味合いで。

 金属質な破裂音とともに硝煙と血の臭いが裏庭に漂い、やがて空気の中に溶け込むように限りなく薄くなりました。脳天を撃ち抜かれた犬と、その下で青息吐息になっている人間とを挟んだ向こう側。狼が豊かな月明かりを一身に受けて、じっと佇んでいます。その青とも白とも黒ともとれる微妙な色合いの毛皮を、万華鏡のように複雑にきらめかせて。

 それで、お前はどうするのか? そう問いかけるかのように、狼は私の顔を眺めています。芝生をさわさわとそよがせる微かな風の中で、ヤコブの梯子みたいに視線を外すことなく、まっすぐに。その光景は計算し尽くされた1枚の絵画みたいに感じられました。

「門は開けてある。君はもう、どこへでも行けるんだ」

 行って、と私は狼に言いました。ついで、ごめんなさいとも。今さらこんなことを口にしても、欺瞞やとりつくろいに過ぎないのは理解していました。この狼は唯一無二のつがいを失い、もはや仲間もいない。正真正銘の一匹狼です。おまけに心身ともに深く打ちのめされ、痛めつけられている。こんな獣を野に放ってもどうなるかなど、目で見るより明らかでした。

 そんな私の言葉に対し、狼はたとえ鳴き声1つでも応答はしませんでした。すばやく踵を返すと力強く地面を蹴り上げ、脇目も振らずに裏庭を横断していきます。そして瞬く間に私の視界から完全に消え失せました。そのあいだ解き放たれた狼は、1度たりともこちらを振り返りはしませんでした。私も急ぎ去っていく狼の姿を、言葉もなく見送りました。

 そして足音が途絶えてあたりがしんと静かになると、暗かった屋敷の窓に次々と明かりが灯り、あちらこちらからぽつぽつと人の声が起こり始めます。恐れと戸惑いを含むどよめきは、次第に人数と声量を増して、忙しない靴音とともに着実にこちらに近づいてきます。

 よけいな動揺を招かぬよう、私は猟銃を地面に置きました。ついで両手を上げ、四方から私を包囲しつつある人々に対し、“こっちだ”と叫びました――……。

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ヘッダー:Kym MacKinnon @unsplash 

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