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執狼記 1-1

 おじいさんのおじいさんの、そのまたおじいさんが生まれた年に千をかけたくらいの、ずっと昔。まだ国とか王様とか伯爵などが、まだいなかったころの、冷夏の年のこと。狼が百匹もの仲間を引き連れて村を襲撃、占拠した。そうして村中の女子どもや老人や病人をかたっぱしから自分たちの餌にして、あらゆる家畜を噛み殺すなどの暴虐の限りを尽くした。
 この呻吟と血の嵐はその年の冬いっぱいまで吹き続けたが、人間たちもずっとやられているばかりではない。勇敢な一人の男が有志を集めて、討伐隊を結成した。
 彼は服毒死させた山羊や羊の死体をおとりにして、狼たちを教会の中に集結させ、欲望のままにそれを貪らせた。やがて体中に毒が回って朦朧としてきたところを、梁の上に潜伏した討伐隊員たちが一斉に弓矢で狙撃し、生き残ったものは殴殺するというのが男の立てた作戦だった。
 思惑通りに含まされた毒と、降り注ぐ数多の矢のために仲間が次々と倒れていく中。狼たちの首領は最後まで残って、人間たちに戦いを挑む。全身に矢が突き刺さり栗のようになっても、襲いかかってくる人間を顎で噛み砕き、爪で引き裂いていった。そうして討伐隊長の男と一騎打ちの末、相打ちとなって息絶えたと。

 また言い伝えによると、このように村に惨禍をもたらした恐るべき狼は、青とも緑とも見える複雑微妙な毛色をしていたのだそうだ。

 だから丘の屋敷の若君が例の狼――カリストを虜にしたとき、あれはおそらく幼い時分に寝物語で聞かされた、あの血腥くも気高い獣の末裔ではないかと思ったものでした。彼が暮らす村では昔から金貨銀貨は当然として、小麦でも布地でも最も上等なモノは屋敷の連中の手中に収まると決まっていたからです。なによりあのカリストというのは、青と緑が入り混じった奇妙な色合いの毛皮をしておりましたから。

 若君……Yは、このあたり一帯を治めている伯爵の嫡男でした。

 人を傅かせて動かすのが常の暮らしのためか、彼は村の若衆の内では比較的華奢な体つきをしていました。くわえて色白であるために、どこか女性的な印象を与える風貌でもありました。しかし角がある双肩や厚みのある胸板は確かに男性特有のものには違いなく、微妙な組み合わせは人を惹きつける要素となっていました。
 そんな彼の容姿を美しい、と人は口々に言います。また、若君にならどんなに悍ましい、ひどいことをされてもかまわないとも。私は痛いのや苦しいのは嫌ですし、“美しい”というのがどんなものかを今一つ理解できませんでしたが、彼が自分や他の村民たちとは何かが違うのは感じ取っていました。リスとネズミくらいに決定的な違いを。

 それはたぶん懐手をしているだけですべてが済む生活と、あるいは高貴な血筋に由来しているのではないかと、私はいつも考えていました。そしてこの推察は当たらずとも、遠からずなのではないかと思い――いや、願ってもいたのです。今あらためて振り返ってみると人の頭上に足を置くからには、どこかしら抜きんでたところがであってしかるべきだ、と卑屈な理屈に支配されていたのかもしれません。

 とはいえ実際に、Yには独特の悩みを持っていたのも事実でした。

 彼の城である丘の屋敷にはたくさんの本がありました。私はここで遠い国の神話やおとぎ話、あるいは書かれた物語、過去の芸術家たちが描いた絵画とか、彫り上げた彫刻とかをいくつも知ったものです。それらは彼の遊び相手に任じられてからの、数少ない役得でした。(実をいえば内遊びが好きなYの相手をするよりもトンボとの追いかけっこや、森番の祖父にひっついて森の中を探検する方が好きだったのです)
 なかでもとりわけ深く私の印象に残っているのは、いつか、とある画家の画集を見せてもらったときのことでした。

 それは、どこかの街の広場にたくさんの人だかりができている絵でした。広場の中央には巨大な装置が設置されていて、そこに白く簡素なドレスを着た女の人が、両脇に侍った男に引き立てられているという構図だったのを覚えています。これが意味するところを、私は一目で理解できました。断頭台です。
 このような絵にじっと見入っていますと、不意に若君がこんなことを問いかけてきました。

「王さまやお妃さまの処刑というのは首斬りに決まっていて、よっぽどのことがないかぎり首吊りや火あぶりにはならないんだ。それがどうしてだか、わかるか」

 わかりません。そう答えながら私は首を横に振りました。このころは自分が裁判にかけられるなどみじんも考えたことなどなかったので、どうやって刑が決まるかなんて見当もつきませんでしたし、それどころか、このような決まりがあるのを私はさっきまで知りませんでした。またこの絵に描かれている女性が、お妃さまであるというのも言われてからはじめて理解してくらいなのです。
 そのような私に対して若君は、懇切丁寧に説明してくれました。首を切るのは死体を一番奇麗に留められるからだと。

「本当に美しい死に方をするのは凍死だけれど、春や夏に雪が残っている山を登るのは大変だからな。冬まで待って殺すのも、なかなか時間かかるし効率が悪い。だからギロチンや処刑人が重宝されるんだ」
「どうして、そこまで死体の美しさにこだわるのでしょうか。どうせ腐っていくのに」
「永遠」私が訊ねると、彼はそう答えました。
「みんな多かれ少なかれ、この世界のどこかに永遠があると信じたがっているのさ。そして首を斬ることで、それを一瞬でも長く留めることができると思っているんだ。なにせ王侯貴族というのは、好むと好まざるとにかかわらず、こういうのに近いところに位置づけられているからな。ほら、王権神授なんて言葉もあるだろう。まあ、これは持論に過ぎないけれどもね」
「では、若様も事があれば斬首刑ですね」

 会話が途切れました。Yは唇をかたく引き結んで、私の顔をまじまじと見つめています。まるで難解極まる迷路の中から、出口を探し出そうとするような真剣な顔つきで。そこで私は自分が礼を失して、口にすべきではないことを言ってしまったのを初めて悟り、慄きました。これから受けるはずの叱責や、お仕置きが怖かったからです。

 しかし予期したことは後にも先にも、何一つ起こりませんでした。私が謝罪するよりも先に彼はそうだな、と一言呟いたからです。それは沼底に落ち込んでいくみたいな、静かな口調でした。ついでこちらの弁明を挟む間もなく、こうも続けました。
「首を斬られるとき僕は僕自身の体やあらゆる時間から離されて、一行の記録や一枚の絵、あるいは一葉の写真、そんなような平べったいものになる。そして出来上がった、平たいものに他のみんながいろんなおまけをつける。憐れみとか嫌悪とか解釈とか、そういうおまけを。そうして限りなく薄くなった僕を、自分だけのおもちゃにするんだ」

 正直に言えば、僕にもそういうものが欲しい。でも、平面的なものじゃない。ちゃんと形や感触があるものがいい――。なおも落ち着いた、沈み込むような調子で彼はそう口にました。このときYの表情を私は今でも、不思議とありありと思い出せます。ぞっとするくらいに寂し気で、でも眺めていて何だか、くらくらと目が回ってくる面差しだったから。

 このようなYの憂いは長じるにつれてますます深くなっていき、街の高等学校や大学に籍を置くようになってからは、よりいっそう切実さを増していったようでした。おそらく成人前に領地を継がねばならなかったことや、あるいは世の中に充満する酒や色などの欲望が、彼の持つ性質や願望を洗練させ、また増幅さたのではないかと私は考えています。そして彼が一匹の狼に執着したのも、きっとこうした経緯のためでした。

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ヘッダー:Marek Szturc @unsplash

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