越境する光 3-3
真夜中。ドアの合間から弓生の部屋を覗くと、彼女は壁際に敷かれた布団にもぐっている。膝を抱えた背中を丸めた、幼虫じみた寝相だ。幸いなことにドアの方を向いていたので、寝顔は容易に見ることできた。
安らかと言い表すよりは、虚しいと評する方が正しい顔つきだった。たとえるなら背中か首筋にバッテリーが埋め込まれていて、それが抜けたという風なのだ。けれども実際には、そんなことはない。薄明りにあてられた頬は、遠目からでもわかるくらいに血色が良い。触れたら暖かそうだと思われる様に好春は、なんとなく胸を撫でおろす。同時に少しだけ口惜しくもあった。
どうしようか。そう思い巡らしながら、じっと眺めていたときだ。表の引き戸がゆっくりと開く音がした。
まもなく忍びやかな足音が遠くの方で起こる。心当たりはあるが、念のために玄関まで向かう。台所から包丁まで持ってきて。すると廊下の曲がり角で、よれた服装の佐山と鉢合わせた。
なんだっ! 佐山は小さく声を上げ、一歩後退って、こちらを睨めつける。泥棒かもしれないし。好春がそう返すと、相手は鼻を鳴らしていかり肩を下げた。その瞬間、二人のあいだにある種の関係性ができた。
彼がシャワーを浴びるあいだに、ダイニングキッチンで食事の用意をしてやった。労働の後のせいか佐山は、供された夕飯を見事に平らげていく。もはや丸呑みに近い勢いだが箸の持ち方や、口元まで運ぶ所作が的確なせいか、不思議に優美な印象だ。
食後の皿洗いのさなか。お茶を啜っていた彼が、なあ、とキッチンカウンターの向こうからおもむろに声を投げてくる。
「どうせ、あれのところにいたんだろう。やったのか?」
「やってない。見てただけ」
「見てたか。俺もそうだった」
「画面越しじゃないか」
「いや、会いに行った」
「そう。刃物を携えてね」
それ以上、二人は何も言わなかった。皿を浄める水音や、グラスがテーブルに触れる音だけがあたりに響く。やがて蛇口が締められ、静けさがやってくる。井戸の底に似た、冷えきった静かさだった。
少し間を置いたのち、好春は顔を上げる。すると相手もこちらを真っ向から見据えていて、おのずとお互いの視線がかち合う格好になった。湖底に沈んだ石を思わせる、暗く潤んだ瞳だった。
「どうして、あれと一緒にいる?」
佐山がそう訊ねてきた。
「血肉や元気をストローみたいに搾られてるだけで、そっちにはなんの益もないだろう」
「そういう君は、どうしてこの話を受けた? 殺したいほど憎んだ相手と、二重奏なんてさ」
好春が訊ねた途端、佐山はふつと口ごもる。少しのあいだ何事かを思巡したのち、相手は再び話し始める。知りたかったから――。
「長い時間と体力とその他のたくさんのものをかけて、俺も兄も人並みの暮らしを棄てて、あれにこだわった値打ちが本当にあったのか。それを知りたかった。俺自身の身体で」
「首尾はどう? うまくいってるかい?」
「俺のことは良い。それより、お前だ。どうなんだ」
「どうって言われてもね。人並みとか、まともとかそんなことは、いちいち考えてられないからなあ」
「だが、タダ働きが好きなわけでもなかろうが」
ちょっとじらしてやれば、佐山はたやすく食らいつく。その挙動が見事なまでに予想した通りなので、好春は笑い出したくなってしまう。相手を指さして、もうこれ以上ないほどに。そんな衝動を咳払いで抑え込みながら、好春は会話の続きを受ける。
「うん。だから今は、少しずつ馴染ませている真っ最中なんだ。そうしてじわじわと存在感を染み込ませて、いずれは引き返せないようにしたいんだ」
まあ。そのうちに十年も、二十年も経っちゃったんだけどね。そう区切った途端に、はたと好春は思いつく。もう引き返せないのは、自分の方ではないのか。撤退すべき頃合いを見誤って、ここまで来てしまったかもしれないと。
あの楽器の保管庫に入ったとき――。物思いに浸る好春に、佐山が口火を切ってきりをつける。
「しょせんはあいつも女だと、組み敷かれてモノにされる女だと思ったんだ。だから許せた。わけわからんことを言われても、たいていはどうにか呑み込めた。こいつもそこらにいる女なんやから、勘弁したろうって。なんなかんだ指図受ける甲斐もあったしな。でも、本当に何もないなら話が違う。なんや、あいつは」
「清原弓生」好春は返す。
「筝がとても上手で、弦を掻くのがなによりも大好き。他にもリコーダーや鍵盤ハーモニカ、大正琴も持っている。とても耳が良くて、どんな音だろうと音楽にしてしまう。工場勤めで缶詰を棒で叩いたり、フォークリフトで荷物を運んだりして日銭を得ている。僕が好きな人で、そして君が殺したかった人」
そのように言い締めたときだ。ひたひたと足音が室外から響き、まもなくキッチンの引き戸が開く。露わになった敷居の向こう側に、パジャマ姿の弓生が立っている。
喉、乾いた……。わずかに二人の顔を見比べて、彼女はそう問わず語りで口にする。好春は冷蔵庫からお茶を出してやる。グラスを受け取って礼を述べるついで、彼女は二人にこうも問いかける。
「で、誰の話をしてたんだ?」
佐山は弓生から目を逸らす。対して好春は彼女に微笑んでみせた。以前と異なる、一切の衒いのない笑いだった。
*
正直に言えば、無理やりにでもどうにかしてやりたかった。また、そうする機会は二十年前から現在に至るまで幾度もあった。でも、現実では何も起こってはいない。
――出会ったからにはもう離れられん。地獄に落ちようが、修羅を見ようが手放せん。かつて自分に向けられた、兄……実父の言葉を思い出す。好春にとって、弓生はまさにそういう人間だ。
しかし彼女にとっては違う。弓生は彼の手や腕を、するりと抜け出ていく。きちんと戻っては来るには来るけれど、自分の目の届かない遠くまで行こうとするのが気に入らない。彼女が拒んでいるのは、そういうところだとは頭では理解していたが。
やきもきしていたのは好春だけではない。彼は旧家の跡取り息子なので、後継ぎについて期待を持たれている。そのため筝師として独立してからは、四方八方から縁談持ち込まれた。まさに瀑布の如き件数だったが、一人ずつ丹念に断り続けるうち、見合い話は次第に間遠になり、今では絶えて久しい。初めは御家安泰のためと鼻息を荒くしていた親戚連中も、諦観の境地に至たり、もはや何も口にしなくなった。
だがここ最近、好春をせっつく者がいる。佐山だ。一刻も早く弓生を抱けと彼は言う。
「早く抱いて、あいつを引きずり降ろせ」
「引きずり降ろしてどうする?」
「人間にする」
『人間にする』弓生を自分の劣位に置くことを、佐山はいつもそう表現した。弓生を抱いてくれ、あの〝女〟を征服して人間まで引きずり降ろしてくれ。ことあるごとに酔ったみたいにそう繰り返す。本当に酒に飲まれているときもあった。あきらかに、ただごとではない。けれども言葉を採用する感性を、おもしろいと好春は思う。本人としては貶しているのだろうが、ある意味では賞賛のような趣もあったのだ。
「あんたがしたかったことを、俺はしたと言った。それも、どんなに望んでも出来なかったことを。取り返したいと思わんのか」
「誰から、何を取り返すって?」
「俺から出遅れた分を、身体で」
もしかして自分がしたくないことを僕にさせようとしてないか? もし、そうなら自分のことを卑怯とは思わないのか――? このような問いが好春の頭に浮かぶ。そして実際に突いてみたら、彼はしたいとおりにするかもしれない。失敗したとはいえ凶行に臨んだし、己の身をこちらに差し出そうとした男だ。実行するだけの素地はある。
好春としても二人が交わるのは、断固として阻止したい。とはいえ相手に付き合う筋合いもない。
「僕には僕の目的ややり方やペースがあるし、君には君のしたいことや君なりの速さや方式がある。それを十把一絡げに、自分と同じに扱うのは失礼じゃあないか」
「けど、悔しないか。負けっぱなしなんは」
「悔しいよ。振り回されとんのは事実なわけだし。だからって、悪いことするつもりはない。まあ、本人が勝ち負けなんて全然考えてないのは腹立つけどね」
「独り相撲」
「ああ、独り相撲」
そんな語らいの時間が、幾度か彼らにはあった。いつも弓生がけして知りえない場所で。
好春は弓生を〝彼女〟と呼ぶ。〝彼女〟は女性の身体を持っていて、またそのように見える容姿だからだ。そして、この前提でもって彼はいつも弓生を扱う。
しかし、ときおりボタンを掛け違った感じを好春は覚えた。まるで似合わない衣服を相手に押し付けているという風な後ろめたさだ。
光越境が蛮行を犯した理由を、弓生は『窮屈だったから』と解釈していた。同じように弓生自身も、どこかで息苦しい思いをしているのかもしれない。おそらく好春の存在も、彼女を気詰まりさせる原因の一つだろう。そう考えるとなんだか、かわいそうになる。
クリスマスが間近になると、よりいっそう二人も練習熱も高まっていく。このころになると弓生と佐山は、すっかり調和をみせていた。弦を掻いて矢継ぎ早に技を繰り出すそれぞれの姿は、抜きつ抜かれつの緊張感を保ちながらも、破綻や不協和は感じさせはしない。そしてこの演奏には沸騰する体温や打ち鳴らされる蹄の音、蹂躙される草花の香りがある。跳ね上がり、前脚を掻きながら猛り狂う荒馬――イメージをまざまざと見せつけられた。そして結ぶ像は、〝彼女〟と佐山の姿と重なる瞬間がある。
同時にもう一つ、好春は気づいた。窮屈であるのは、おそらく佐山葉梓も同じだということに。
彼は次世代の家元として厳格に育てられた。そのどのような時間だったのか、好春には少しだけ想像がつく。よくよく思い返せば彼と自分の境遇には、似通ったところがいくつもある。受け継がれるべき家風と伝統、父親、そして兄。
これらについて思い巡らすたびに、好春の心臓はきりきりと痛む。まるで柔らかい帯で、ゆるやかに締めつけられるように。またその布は好春の柔く脆い部分を捉えて、どこにも逃がさなかった。
耳にしてるだけなのに、どうして、こんな思いをしなければならないのか。かつて山城はそう言った。言葉にせざるを得ないほどの切迫感が、二人の音色にはあった。指先が弦を震わせた途端にその場が華やいで、覇気に満ちみちる――そんな音楽には。
そしてどこか奇妙な聴こえ方でもある。目まぐるしいほどに波乱に富んだ旋律なのに、基底では不動性が内包されていた。あらゆるものを突き放し、どこまでも冷徹で揺るぎないものが。死。彼らの筝の音を耳にする度、その単語がふと好春の頭を過る。そして、やはり胸が痛む。ひきつれたような細く、深かい痛みだ。
その源や理由を彼自身も知ろうとはしなかった。けれど確かにある苦痛だった。
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