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執狼記 3-1

*動物虐待の描写があります。ご注意ください。

 人間である私には、動物の気持ちというのが真に理解できるはずはありません。人間同士でもお互いの考えがなかなか理解できないのに、ましてや言葉が通じない動物となれば、もはやお手上げというものです。けれどもあのカリストにとって丘の屋敷での生活は、森での暮らしとは比べるまでもなく、惨めなものであるというのは容易に想像がつきました。

 カリストに屈辱感を与えたはずの最初の出来事は、おそらく獣医からしかるべき治療を受けたことでしょう。当然ながら森の中に獣医はいません。どのような動物も心身が老い、体力が尽きれば死にます。そうして他の生き物の餌になるか、草木の養い親として土に返るのが定めです。しかし人間に捕らえられた狼には、このどちらも許されませんでした。美しいから……愛おしいからという理由だけで、ただ生かされ続けていました。

 それからカリストは次々に恥辱を甘受することになりました。石鹸で汚れた体も清められ、荒れていた毛並みも櫛で手入れされること。小さな部屋を与えられて、閉じ込められること。皿に入った餌を食べさせられ、外に出るときはリードを巻かれて引かれること。そして最後に狼が人間の愛玩犬になった証しとして、その首に白いリボンが巻かれました。何の柄の入っていない、かつてのつがいと同じように真っ白なリボンです。それを見ると私はいつも据わりの悪い心地になったものでした。

 また、カリストが若君の屋敷に連行されて間もなくのことです。カリストのつがいを始めとした狼たちの死体が、村の広場で首を吊られて晒し物にされました。

 村民たちは物言わぬ獣の体に石礫を投げ、罵詈雑言を浴びせかけました。シンプルに石を投げるのはまだ上品な方で、もっとも下卑た輩は死体を弄び、滑稽な……あるいは卑猥なポーズをとらせて辱め、そうして誰が一番面白がらせ、興奮させられるか競い合いました。(私も遊びに参加を求められたことがありました。そして行いました)あまりの惨状に牧師が苦言を呈しましたが、聞く耳を持つものは誰もいません。
 どうして死んだ狼相手に、そこまでするのか。家畜を殺して畑を荒らすのみならず、人までも襲うので嫌われていたというのもあるでしょう。ですが、それだけはけして憎悪だけ言い表せない感情――いえ“嫌う”“憎む”というよりはもっと空疎な何かが、一連の行為の中に確実に含まれていました。この狂おしい熱を伴う乏しさについて、ぴったりと形容できる表現を私は持ちません。しかしはっきりと言えるのはそこには畏怖や、敬意などという物は一切存在しなかったということだけです。

 そんな空しさを含んだ熱狂が激しさを増すにつれて、祖父が酒を呷る頻度はどんどん増えていきました。とはいえ飲んで暴れるというわけではなく、仕事や礼拝のとき以外には森番小屋に酒瓶と一緒にこもっているきりでした。だから村の商店へ出る用事はすべて孫の私に任される流れになり、自然と狂乱する人々の姿を目にすることになりました。
 日用品やカードリッジの補充を買いに行くとき。そして広場を通りがかって、村民たちの白熱したいじめぶりを目にするたびに、私は世界の全てがのしかかってくるような激しい恐れを抱きました。そしてこのような狂乱状態に陥った原因の1つが自分にあるという事実が、さらに拍車をかけました。こういうとき私はYに対して、無性に何か言ってやりたい気持ちになったものでした。そして実際、私は丘の屋敷へと赴きました。

 このときまで私自身が、自ら若君に会いに行ったことはありませんでした。わざわざ彼の許に足を運ぶ機会は名指しで呼びつけられたときか、あるいは屋敷番である両親の手伝いに行く――また遊び相手として雇われたときか。それくらいしか、ありませんでした。
 それにYに対してどんなことを話したいのかも、まだ、このときはわかってはいませんでした。でも、やはり何か、彼に伝えなければいけない事柄があると私は確信していました。そして、もしかしたら彼の顔を見たらわかるだろうというのも……。だから、丘の屋敷に続く坂道を上りました。

 領主屋敷がある場所は、丘と表現するには立派で亭々としていました。ただ、山と呼ぶには足りないから誰もが便宜上“丘”と呼んでいます。そのような立地ですので屋敷に向かう途上でも、あたり一帯を一望することができました。そして丘を登るたびに、景色は本当に見事なものだと私は毎回感心したものでした。なにしろ私どもが暮らす村はおろか、それを覆っている森の果てさえもここからは見晴らすことができるからです。
 そのような光景の壮大さは、私にある種の憧れを掻き立てたものでした。もし森を取り囲む山々がなければ、地平線の向こう側、世界の終わりでさえも捉えることが可能かもしれない。そのときの征服感を想像すると、いつも私の胸は高鳴ったものです。
 しかしそれと同じくらいに風に吹かれた樹々がいっせいにぬめぬめとさざめく様や、樹海の中で人の家が孤島の如くぽっかりと存在している風景は何だか恐ろしいものでした。またそんな中でこまごまと小さく並んだ村の家々が、さらに怖さをあおります。
 眼下に密集している屋根は、シュトレンに練り込まれたドライフルーツを思い起こさせるような豊かな色彩です。しかし長年の雨風のために鮮やかさは失われ、どれもくすんで色あせていました。それが冬のはっきりとしない空模様と相まって、クローセットの中で仕舞われたまま忘れ去られたおもちゃのように今は切なく、またみすぼらしく見えました。その人々の営みのちっぽけな貧相さと、生活圏を包囲する自然の雄大さとの対比が私の胸に寒心を呼び起こしたのでした。

 このような光景を目の当たりにするたびに、あの方――丘の屋敷の若君はこれを毎昼毎夜眺めているのだと私はしみじみ思ったものでした。ついで若君は斧の領民たちのことを、小麦粉に群がる虫くらいに捉えているのではないかという考えも頭に浮かびました。また実際にそうであっても、さりとておかしな、嫌な感じはしませんでした。こんな風に考える資格がYにはあるような気がしていたからです。彼の容姿を“美しい”と称える人々と同じように。

 坂を上り詰めると、屋敷の正面玄関に続く門があらわれます。正門には防犯(こんなところで意味があるのかはわかりませんが)のために、いつも閂かかっていました。ノッカーを叩くと、紐づいたベルが鳴り響いて、その音を聞いたフッドマンやメイドが顔を出して解錠する決まりになっています。だから、私はいつもどおりノッカーに手を伸ばしました。でも金輪に触れる寸前、私はあらかじめ閂が落ちているのに気づいてしまいました。
 そこで、ちょっとした出来心が起こりました。私は物音を出さないよう、そっと慎重に門を開きます。けして大きくは開けずに、必要最低限に。ついで、するりと敷地内に入り込みました。

 前庭はちょっとした庭園になっていてマツやヒイラギなどの樹々が点在し、背の高い生け垣が張り巡らされています。つまり身を隠すための遮蔽物は十分にあるということです。またしても用心しながら門を閉めますと、これらを利用して屋敷に向かって進んでいきました。
 身を低くしながら、どことなく気分が高揚しているのを感じていました。今までは――何だかおかしな表現ですが――正式な玄関を使っての出入りしかしなかったので、泥棒みたいにこそこそと動き回るのはなかなか新鮮な感覚だったのです。加えて貴族の住居という場所柄と、初めての経験という緊張感が、なおさら面白さに刺激を与えていました。しかし楽しさにかまけて、目的を忘れてはいけません。私はまっすぐに裏庭に向かいました。

 さきほどにも述べたように、カリストは基本的に室内で飼われていました。とはいえ狼……というか犬は健康維持のためには、少なくとも1日に1回は外に出して運動させなければなりません。ですからカリストにも外遊びをさせる時間は設けられているはずで、そのためには裏庭がうってつけの場所なのでした。前庭とは違って、あそこはY自身の自室のようなものでしたので、なるべくカリストを人目につけたくないという彼の目的にかなうからです。

 上手いぐあいにその場に鉢合わせればよかったのですが、しかしどうも間が悪いようで、庭には誰もおりませんでした。ぽっかりと開いた芝生だけの空間に、冷え冷えとした風がただただ吹き抜けるばかりです。ここにいないとなると、邸内しかありません。

 しかし私はカリストの部屋が屋敷内の、どの場所にあるのかを具体的に知りませんでした。(狼と会うのはいつも外だったので)とはいえ、おそらく裏庭に近いところにある部屋のではないかと直感はありました。ですので、附近にある屋敷の窓を1枚ずつ覗きます。――いました。カリストがべったりと床に臥せっています。また、運が良いのか悪いのかYも同じ部屋に一緒にいました。

 逆光のために視界には影がかかっていて、最初のうちは室内の様子はよく見えませんでした。けれども伏せの姿勢をしている狼の傍に、Yが寄りかかっているのはどうにかわかりました。躾をしているのだろうか、と私はさらに目を凝らします。
 そうして窓ガラスの向こうを眺め続けて、どれくらいの時間がかかったのか。刹那とも千秋だとも感じられました。しかしある瞬間……曖昧だった輪郭が不意に明確な像を結び、私の中に痛烈な驚きを伴って結実しました。あまりのことにひゅっと喉笛が鳴った、その刹那です。銅鑼のように、猛々しい犬の叫び声が周囲に轟いたのは。

 同時にYがこちらを振り向きます。いきなりのことでしたから思うように身動きが取れず、私たちはおのずと視線がかち合う格好になりました。その相手の眼差しにはまだ恍惚とした――熱っぽい放蕩の名残があり、それを認めた瞬間のあの肌がぞっと粟立つ感覚を私は今でも忘れることはできません。
 お互いに見つめ合っているあいだにも、絶え間ない猛り声やざわめき共に大勢の足音がこちらへ寄ってきていました。続々と起る出来事のために針で留められたように身動きが取れないでいると、突如として勢いよく窓が開き、突き出てきた手が私の両腕をぐっと掴みます。かっと焼けるような手のひらでした。

「来い!」

 小さく鋭い声でそう言ってYは己の腕に力を入れます。私の体を引き上げ、こちらもそれに応えて壁を蹴りました。まもなくつま先が浮き上がり、両脚が宙に浮きます。そして窓枠が私の腹にかかりました。

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