母なし父娘関係で本当に悩んだ(でいる)こと

私は姉が二人いて三姉妹の末っ子。父子家庭で育った。
母とは離婚ではなく死別。
母はある日突然死んだ。私は11歳だった。

父は典型的な関白、ワンマン、男尊女卑。
まだ私は小さかったが、よく夫婦喧嘩してたのを覚えている。
お母さんはしょっちゅう泣いていた。
だから当時の私は、お母さんを殺したのはお父さんだと本気で思っていた。今も思っている。
ちなみに自殺ではない。もうどうしようもないのだ。
心筋梗塞なんて。でも原因はストレスだと思う。
他に考えられない。
昨日のことのように死んだときのことを覚えているが、もう18年も前だ。
あれから18年も経ったのだ。
母と過ごした年月より長く生きてしまった。
かなしいかな、月日の流れは残酷。娘であるにも関わらず母の声もおぼろげ、顔の記憶もうすーくなるものだ。

問題はコレではない。今はどうでもいい。
そんなこんなで私は父のもとで育った。
二人の姉と年の離れていた私はかなり溺愛されていた。
その愛情が重いこともある。
父は相当男の子が欲しかった。だから私を作った。
でも女の子だった。
結果カワイイのだからオーライなんでしょうが、私が産まれ時、「なんだ女か」と母に言ったらしい。(生前の会話の記憶)。
本当に人なのであろうかという発言。信じられない。ドン引きだ。
なぜ男の子に拘ったのか。
うちは田舎の古い家だ。
男の子が家を継ぐものだという考えがある。
皇族のお世継ぎ問題か。
うちは何代も続く歴史ある家なんだと。
その家に産まれた自分が誇らしいと父は自分で言っている。

父が一番恐ていたこと。それはこの家が途絶えること。
そう、姉二人は先に結婚し、私が残された。
当時私は東京で働いていたが、彼氏もいなく、東京で一生過ごすことが考えられなくなり田舎に戻った。
父が嫌で東京の大学受け、東京で就職したくせに。
我ながら動機が不純である。
仕事を辞めるときは、会社には田舎で父が1人でとかなんとかなんて言って、事実だが同情を自ら買いに行くような言い方で辞めた。
そして実家に戻った。
相当嬉しかったろう。1人でいるとこにカワイイ娘が戻ってきたんだから。

でも私は婿をもらおうなんて考えなかった。
当時26.27歳くらい。
考えなかったわけではないが当時結婚したくてしょうがなかった私は結婚相談所にも行った。婿養子希望で。
でもこれまた悲しいかな、誰もこない。お声かからず。
田舎で結婚したい男は大体嫁希望なのだ。
需要と供給があわないわけだ。
だからすぐ退会した。虚しくなったのだ。

そんなこんなで夫と出会った。
夫にも我が家のことは話したが、夫の家は夫の家で事情がある。
父に紹介し、さぁ、結婚‼
なんて当然ならない。
結婚の話をしようものなら焦ってるだの何もわかってないだの。
何度泣いたことか。

自分を一人にされることを恐れていたのだ。
妻がいないから余計に。ま、お母さんが生きてたって離婚してたでしょうがそこは割愛。
誰がお父さんの面倒見るんだって。
一人が怖いのはわかる。しかも60過ぎの独り身だ。孤独でないわけがない。

ただ私はお父さんが怖くなった。見たくないのだ。顔合わせても仏頂面。悲観的なことしか言わず私を否定する。
毒親と言うのだろう。
でも私は夫と結婚したかったから強行的に進めた。
要は私の全てが気に食わないのだ。
今思えば私の行動も相当なもんだが。我ながらヒドイ。

周りからの「お父さんの気持ちも考えて」「結婚は二人が良ければって話じゃないから」エトセトラ。
わかってるフリして私の心を殺すようなことばかり言われた。
姉二人も嫁に行った我が家は、私が婿をとるか嫁に行くか二択なのだ。
一つを選べばもう一つは選べないのだ。
だから私は嫁に行くことを選んだ。
父より長いであろう人生、好きな人といたいのだ。
最後は父も納得してくれた。
いや納得はしてない。どうすることもできなかったという方が正しいか。
私だって悩んだ。父を苦しめているのは私だと。
それを父は知っている。だから互いに悩んだのだ。

本来ならば、結婚を許してくれた父に感謝するべきなんだろう。感謝している。嘘じゃない。今の生活があるのは紛れもなく父のおかげ。

でも知ってしまった。私たちの場合、私が屈服するほうが父娘関係はラクなのだ。
その処世術を知ってしまった今、私はやはり父が苦手なのだ。

それでも私の作るご飯が一番美味しいという。
父のもとへご飯を作り行くか行かないか、どうでもいいようなことで私はまた悩むのである。