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言葉の壁は、自分だけの問題

こんばんは。ちかです。


最近、私に声をかけてくれた韓国の方と細々とLINEをしていて強く思う。「コミュニケーションは言語ではなく、意思だ」って。そして、矛盾も抱える。「コミュニケーションは、言語がないと成り立たない」よね?

前者は、英語が拙いとか正確とか、そんなのどうだって良くて、何を気にしているか、何を思っているか、何を大切にして生きているのか、受け取ったものに対して何を思うのか、など、言語とは関係ない相手の気持ちを、相手から来るLINEで受け取っている。文法が間違ってるとか、とても綺麗な英語だなとか、そういうのよりまず、「?がついているか」とか、「私の疑問に答えてくれてるか」とか、そういうことばかりを気にする。何だっていいのだ、言語なんて。所詮、「コミュニケーションツール」なんだから。大事なのは気持ちだ。

でも。同時に思うのだ。「英語じゃなかったらもっと違う印象の私だったと思う」って。だって、わたし、気になる人の返信は基本早くすると決めてしばらく経つし、英語じゃなくて日本語だったら実践できている。
でも、今回は、英語が邪魔をしてすぐに返せない。翻訳機に入れて合っているかを確認しないと、LINEなんて送れない。日本語だったら20秒で返信するところ、10分かかって返信するのは、なんだかんだ時間も取られるし、純粋に疲れるし。もしも私が英語に抵抗がなかったら、もう少しなんかあったと思うのだ。


このもどかしい感覚は、まるで具のないコンソメスープをお箸で食べている感覚に似ている。 美味しいのだけれど、それを知っているのだけれど、道具がなくて上手く味わえない。使っているのが箸だからといってコンソメスープが不味いことにはならないのに、箸だけでコンソメスープを飲み干せと言われたら無理に決まっていて、飲むのが億劫になるし、純粋にスプーンよりも時間がかかると知っているので、苛立ちすらある。

自分の英語力が、憎たらしい。


あのね、でも、多分。私が彼ともどかしい気持ちになっているのは、英語のせいじゃなく、英語のせいにしている自分のせい。

言語はコミュニケーションの上で必要不可欠だけど、それに囚われては目的を失う。言語のせいにして、相手がいることを、相手の立場に立つことをつい忘れてしまう。価値観が違うのだから、相手のことをか考えてそばにいる必要があるなんて当然のことなのにね。

それに、今もどかしい思いをしてるのは、私の本当の悪い癖で意地っ張りだからだ。相手からすぐに返信が来ないのに自分がすぐ返信するのはいや、とか、相手から声をかけてきたんだからこっちが重たくなりたくない、とか、そういう。

でもそうやって自分を隠しても、何もいいことないって分かってるのよ。

言語というものを見つめて、私のコミュニケーションや考えがいかに独善的なものであるかを知る。伝えるためのツールであるはずの言語を、私は自分を守るためのツールとして使っていて、相手を見ることができていないことを知る。

どんなに美しい箸をもっても、食べるものがなければ意味が無い。箸職人として生きるのであればまだしも、箸を使うのは基本食べるためなのだから、美しすぎても意味が無い。もちろん拾ったばかりの枝、という訳にもいかない。


ああ、もう少し考えたいけど寝ないと。でもこれは、自分のことをよく知るチャンス、悪い所を見つめるチャンス!まだまだモヤモヤして言語化できないあらゆることを、言語化したいなって思っては、また言葉をそうそうやって使っている自分に呆れる。

とりあえず今度、伝えてみようかな。
「私、英語に自信がなくて億劫になってしまっているのだけど、ほんとうはもうちょっと毎日あなたを感じられたらいいなと思ってる」
って。なんて返ってくるかなあ、そんなん言われたら、困っちゃうかなあ。




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