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『バイオハザード ヴィレッジ』が伝えた親子愛の形

私たち人類にとって、最も原初的で不可欠な社会とは、家族である。父と母、そして子という構図があって初めて、人類は次の時代を形作ることができるのだ。

家族の中でも、さらに深い絆で結ばれているのが母と子、そして父と子の関係である。彼らは因果の関係で結ばれている以上、その縁が切れることはない。

しかし現実とは非情なもので、様々な要因が彼らの絆を脅かす。あるものは夫婦の不仲や暴力を原因に、またあるものは死別によって、親子の直接的な繋がりが引き裂かれるのである。

親子関係が望ましくないものになったとしても、彼らは決して縁を断つことはできない。どちらかがこの世に生き続ける限り、生者はその苦しみに耐え続けなければならないのだ。

このような親子関係における不幸の問題は、非常に身近でありながら、時として個人の運命や生死を左右するほどに過酷なテーマとして降りかかる。

『バイオハザード ヴィレッジ』は、そんな親子関係の不幸を残酷なまでに生々しく描くとともに、家族の強固な絆を啓蒙的に描き切った作品ではないだろうか。

子を奪われた苦しみを孤独に耐え続けたイーサン

今作において象徴的だったのは、ことあるごとに残虐な方法で傷つけられたイーサンである。

平穏な家庭へ突如押し入った特殊部隊に妻を射殺され、子を奪われ、訳もわからぬまま狂人だらけの寒村へと導かれる。

到着するや否や狼男に指を食いちぎられ、古城の領主には右手を切り落とされ、しまいには心臓を(文字通り)握り潰されるなど、「踏んだり蹴ったり」という言葉では足りないほどの仕打ちを24時間足らずで受けるのである。

ここまで残虐非道な体験が目白押しとなれば、もはやホラーを超えてコメディの領域に達しようかというものである。しかしこういった残虐表現の節々に、我々はイーサンの心情描写を汲み取ることができるのだ。

そもそも、イーサンが得体も知れぬ村の中に滞在を続けたのは、娘のローズを取り戻すための戦いに身を投じるためである。

愛する我が子のために勇気ある行動を示す姿は励まされるところだが、それ以上にイーサンが背負い続けた苦しみには、筆舌に尽くしがたいものがあった。

イーサンが極限まで肉体的な苦しみを受け続けたことは、プレイヤーに対して、いかにイーサンにとって「子を奪われる」というストレスが耐えかねるものであったかを表現していると考えられる。

実際、イーサンは不死身の力を本人の知らぬところで獲得しているため、肉体的なダメージは彼にとって大したものではない。現にドミトレスクに右腕を切り落とされた際も、薬品を振りかけるだけで右腕の接合に成功している。

あれだけ写実性のある描写にこだわる『バイオハザード ヴィレッジ』が、一昔前のゲームのようなご都合主義でイーサンの右腕を復活させるとは思えない(ホラーにはコメディがつきものという意見も尤もだが)。

彼はすでに人智を超えた存在であることをプレイヤーに知らしめるとともに、イーサンが耐え続けた肉体的苦痛の描写には、何らかの表現的理由があることを示唆していたのでは、とここでは考察してみたい。

イーサンの超人性を随所で示しておきながら、それでも大ごとのように、痛々しく残虐描写を盛り込んでいたのは、やはりイーサンの精神的苦痛に対して、プレイヤーに共感をもたらすためではないだろうか。

イーサンにとって、もはや肉体的苦痛、あるいは自身の生命の安全などは問題ではない。それでも彼があの村で苦しみ続けていたのは、たった一人残された愛娘を奪われた恐怖と焦燥、そして怒りゆえである。

終盤になって明かされることだが、冒頭で射殺されていたのはミア本人ではなく、ミアに偽装していた今回の黒幕である、マザー・ミランダだ。しかしイーサン本人はそのことを知る由もなく、「自分はローズに残されたたった一人の肉親である」という重い責任と孤独感にも苛まれていたはずだ。

クライマックスでローズを取り戻し、クリスへと彼女を託したイーサンは、もはや思い残すこともなかったかのように、潔くミランダとの心中を決意する。

ド派手な爆発で舞台を丸ごと吹き飛ばすシーンは、「バイオハザード」シリーズお馴染みの光景でもあるが、今作ではその重みが従来のそれとは一線を画している。

あの爆発は、どれだけ過酷な体験を繰り返し、心臓を潰されても死ぬことが許されなかったイーサンへやっと訪れた、安息の時間の到来を示唆したシーンではないだろうか。

細胞の一つも残らぬ業火によって、イーサンは『バイオ7』から続く、終わりの見えない苦しみからようやく解放されたのだ。

もちろん、この先ローズがどのように育ち、平穏な人生が送れるかどうかなども不安もあるだろう。

しかしそれ以上に、奪われた愛娘を取り返せたことの喜びはイーサンにとってあまりに大きかった。二度とそのような目にローズを遭わせたくないという親心と、二度と自分がこのような苦しみを味わいたくないという二重の心理が、ミランダとの心中を決意させたのではないだろうか。

こういった背景を踏まえると、イーサンの最期は私たちが思っている以上に、とても安らかなものであったはずだ。

「父」に使命感を与えたミア

イーサンが一人苦しみに耐え続けていた一方、本編ではミアについての描写がほぼ存在しなかった。

これはミアがクリスに救出されるまで、長らく監禁されていたことが原因なのだが、前作では本編でも大活躍を果たした彼女がここまで脇に追いやられてしまっているのは、なぜなのだろうか。

実はそんな淡白な扱いを受けるミアについても、重要な役割を与えられていたと考えられる。冒頭でミアをイーサンの目の前で射殺することで、イーサンに絶大な孤独感を与えたのだ。

後ほど詳しく述べるが、『バイオハザード ヴィレッジ』は母の強大さや家族の絆を大きなテーマとして描いた作品である。

ミアとイーサンはヨーロッパで円満な家庭を築き、ローズの成長に不可欠な母として、イーサンも認識していたことだろう。

だが突如として、ミアはイーサンの目の前で銃弾を浴び、通常の人間であれば間違いなく絶命しているほどの事態に直面する。

冒頭におけるこの経験は、イーサンに「ローズを救えるのは自分しかいない」という、強烈な使命感を負わせることとなった。

子の問題に向き合う時、我が子の母であり、愛する妻である存在が喪失することで、どれだけの代償と苦しみを父一人が背負うことになるのかを、イーサンは間違いなく体現したのである。

本物のミアが、初めから監禁されていることがイーサンにも知れ渡っていれば、『バイオハザード ヴィレッジ』で描かれたような鬼気迫る彼の活躍は見られなかったかもしれない。

そして、最後に彼女が無事であることがわかったのも、プレイヤー向けのアピールであることを忘れてはならない。

結局、イーサンはローズを取り返せてもミアの顔を拝むことは叶わず、あくまでも「父」と「子」の関係性の中で、自ら心中することを選んだのだ。

ある意味、何も事態を飲み込めぬまま、クリスに助け出されたミアも気の毒である。気がつけば愛する夫が窮地に陥り、あまつさえ目の前で異型の怪物と心中する瞬間を見せつけられているからだ。

あの事件の後、あるいはイーサンが本編で獅子奮迅の活躍を見せている中、ミアがどのように過ごしていたかについては、今作のDLCや次回作で明らかになるかも知れない。

四貴族が体現した「愛なき親子関係」がもたらす狂気

ここからはイーサンたちと少し距離を置き、マザー・ミランダや彼女を取り巻く四貴族たちの関係性にも注目していく。

彼らの立ち振る舞いや人間性を紐解くことで、適切な親子関係が失われた時、どのような悲劇が待ち受けているかが暗に見えてくるのだ。

オルチーナ・ドミトレスク、ドナ・べネヴィエント、サルヴァトーレ・モロー、カール・ハイゼンベルクの四人は、マザー・ミランダから特異菌「カドゥ」を与えられたことで、驚異的な能力を手に入れたとともに、ミランダと母子関係を結ぶこととなる。

つまり、ミランダと四貴族の関係もまた、『バイオハザード ヴィレッジ』が描く親子像の一つであることは強調すべき点である。

彼らの振る舞いを一人ずつ確認していこう。まず、本作の看板キャラクターでもあるドミトレスク夫人だが、彼女はミランダの養子であるだけでなく、ドミトレスク自身も娘をあてがわれている。

つまり、今作においては母であり、娘でもあるという特殊な地位を授かった、重要人物なのである。

そんな彼女を今作の看板に据えているということも、『バイオハザード ヴィレッジ』が「母の強さ」をテーマにしていることを裏付ける証左と考えられる。

ドミトレスクは血が繋がっていないとはいえ、三姉妹を我が子のように扱っていたことは、イーサンが彼女たちを手にかけたことで怒りをむき出しにすることからもわかるだろう。養子ではあるものの、彼女の母としての責任感と愛は強かったというわけだ。

一方、彼女のミランダに対する愛や忠誠心についてはどうだろうか。残念ながら、ミランダとの電話での会話の後、彼女への怒りと不満を部屋にぶちまける姿からもわかる通り、非常に希薄な関係であることがうかがえる。

しかし、「弟の馬鹿らしいゲームから逃げおおせたようね?」などのセリフからもわかるように、自身はマザー・ミランダによって生み出された子の一人であり、他の貴族たちは兄弟であることを自認している点は大きい。

そもそも、マザー・ミランダは養子として四貴族を迎え入れてはいるものの、本当の目的はドミトレスクたちのようなカドゥに適合する怪物を生み出すことではない。彼女の目的は、100年前に亡くした我が子を復活させることのみである。

マザー・ミランダは狂気の科学者としての側面が強いが、今作では最も野性的な「母」を体現した存在でもあることは注目に値する。

親子のヒグマには近づくな、という言い伝えもある通り、子を伴う母というのは非常に凶暴な存在である。自身の安全も含め、あらゆるものを犠牲にして子を守るという責任と覚悟を常に背負っているためだ。

ミランダは一度我が子を失っているものの、奇跡的に子を現世に蘇らせるきっかけを、幸か不幸か発見してしまう。

子を埋葬した後に、自身も身を投げる覚悟でいたほど愛が深かったミランダにとって、もはやその勝機はあらゆる犠牲も厭わない価値を持っていたはずだ。

そのため、ミランダ自身もドミトレスクたちにかまっている暇はないどころか、愛を彼女たちに伝える義理もないのである。

私欲のために無責任に養子を迎え入れ、うまくいかなければ道具扱いという彼女の振る舞いは、例え血は繋がってないとはいえ親子関係として許されるものではなく、四貴族たちの不信を招いたのだ。

ただ、ドミトレスクも心から3姉妹を愛していたのかといえばそうではなく、彼女は元々没落貴族であるという経緯がある。イーサンの手によって、結果的にドミトレスク家は根絶やしにされたわけだが、それ以上に血統を絶やされたドミトレスクの怒りと恨みは大きいだろう。

イーサンが三姉妹を手にかけ、ドミトレスクが怒りをあらわにしていたのは、ドミトレスクの家が途絶えてしまうのではという、個人的な危惧があったからではないだろうか。

彼女が吸血鬼のように血をすするようになったのも、血の繋がりや「家の血」に対して異常なこだわり、あるいはコンプレックスを抱えていたからかもしれない。

ドミトレスクに続いて登場したのが、ドナ・ベネヴィエントである。彼女もまたミランダの養子となり、カドゥを与えられて超人となった存在だが、父の不在に対して強いコンプレックスをあらわにした人物でもある。

本編において、ベネヴィエントは自身が愛用する人形、アンジーを媒体とし、イーサンを屋敷に招き入れて翻弄する。

イーサンが見た幻覚は、赤子を模した「ベビー」と呼ばれるおぞましい怪物だ。あの空間の多くはベネヴィエントがアンジーを通して見せる幻覚であった為、実在こそしないとされるが、それにしても見る者へ強烈なトラウマを与える外観であった。

ここで注目したいのは、アンジーやベビーは、イーサンをパパと呼び、彼にずっと屋敷へ残るよう執拗に強要してきたことだ。

ドナ・ベネヴィエントは元々、幼い頃に両親が死別したことで、ミランダに養子として迎え入れられた経緯を持つ。

それ以来、ミランダのおかげで代母は見つけられたものの、父を得ることだけは叶わなかったのである。

また、アンジーは人形メーカーの父親からドナへ与えられたもので、父を失った悲しみや孤独を人形とともに過ごすことで慰めていたと考えられる。アンジーを常に手元へ控えさせているのは、父の不在を紛らわすための行為だったのではないだろうか。

それだけに、ローズを子に持つイーサンに向けられた、「父」への憧れや羨望は、他の貴族にも増して強かったと想像できる。「ローズさえ生まれなければこんなことにはならなかったのにね」など、ローズに対する嫉妬の感情を垣間見せることさえもあるほどだ。

ただ、ベネヴィエント邸のクライマックスでは彼女の膨れ上がった感情が沈静化へ向かう様子もうかがえる。

常軌を逸した幻覚でイーサンを地下室で苦しめた後、ドナ・ベネヴィエントとアンジーとの直接対決で行われたのは、なんとかくれんぼである。

おぞましい人形にハサミを突き立てて突破するイーサンの姿からはイメージするのが難しいが、時間内にアンジーを見つければ勝ち、という単純なルールは、休日の父親と娘の微笑ましいやりとりを想起させる。

これは推測だが、ドナはイーサンを食い止めるというよりも、単に父との時間を過ごしたかっただけではないだろうか。

ドナの能力が幻覚に特化したものであったとはいえ、地下室での悪夢や地上でのかくれんぼは、他の貴族たちに比べると少々攻撃性に欠ける。

かくれんぼシーンにおいてもアンジーは無抵抗で、ただ罵詈雑言を並べるだけで大人しくイーサンから攻撃を受けている。

前述の通り、四貴族たちのミランダに対する母子のつながりは希薄で、ドミトレスクのように反抗的な立場を取る人物もいる。

おそらくドナについてもこの点では共通しており、父となる存在を与えられなかったことが、彼女へ大きなコンプレックスをもたらしていたのではないだろうか。

久方ぶりに「父」との戯れに興じたドナは、心おきなく本当の両親たちの元へ召されていった(と願いたい)のである。

そして、イーサンという父たる人物に対して、父の愛を受けられない子どももいることを強烈に印象付けたかったのかもしれない。ベビーの脳裏から離れ難い醜悪な姿や、アンジー人形を執拗に探させたのも、ドナ・ベネヴィエントの孤独を慰めるとともに、孤児の遍在をイーサン、そしてプレイヤーへアピールしたかったからではないだろうか。

サルヴァトーレ・モローは四貴族の中で最も人外の外見へと変貌してしまった人物である。知能もカドゥの影響で低下し、自分の意思で巨大魚への変異をコントロールできないなど、彼の不安定な精神状況が随所に見て取れる。

しかしその弱さや外見の醜さも相まってか、四貴族の中では最もマザー・ミランダに対して畏敬の念が強いのも特徴だ。

ただ、母に対する忠誠心というよりも、モローはミランダへの過剰な依存性が見られる。自分にはマザー・ミランダのみが存在意義であり、彼女のために信心深そうに祈っている様子も、作中ではみうけられた。

ミランダがローズを使い、彼女の実子を取り戻そうとしていることを知った時も、自分が捨てられてしまうという危惧から、異常な拒否反応を示していることが、彼の日記からうかがえる。

要するに、マザーのためならなんでもするという気高い忠誠心ではなく、自分が自分でいられるための存在として、ミランダを捉えている。他の貴族同様、自己中心的な欲望を胸に秘めているのだ。

ドミトレスクのように、母の愛を得られなかったことから反抗的になる場合もあれば、モローのように異常に母の愛情を求めるケースもある。

彼自身、プライベートはチーズを食べながら古い恋愛映画を鑑賞することが楽しみのようで、古典的な人間らしい愛情関係に飢えている様子が同情を誘う。

また、モローはその醜い外見ゆえに他の貴族からも嫌われており、その疎外感がミランダへの忠誠心に繋がっていったことも考えられる。

イーサンにも「最期まで汚い野郎だ」と罵られていたが、周囲には馬鹿にされ、心の支えであったミランダにも見放され、醜く散ったモローにはいささかのシンパシーを覚えるところだ。

最後にイーサンと対峙したカール・ハイゼンベルクだが、彼もドミトレスク同様、その能力ゆえにミランダへ反旗を翻そうとする人物である。

四貴族の中では唯一イーサンに共闘を求める特異な存在でもあり、自ら機械人間たちを量産して軍隊を持つなど、高度な知能と身体能力を有していることがわかる。

ハイゼンベルクとの戦闘においても、イーサンは彼が自作した自走砲を使ってようやく互角というレベルの戦いを見せ、四貴族最強の人物だったと言えるだろう。

彼について特筆すべき点が、コンセプトをフランケンシュタインに設定してキャラ作りが行われたところにある。

フラケンシュタインの設定については、ゲーム内のアートワークで紹介されているが、ここで本家『フランケンシュタイン』のあらすじについて確認しておこう。

『フランケンシュタイン』は、世界で最も有名なホラー文学の一つに数えられる名作である。科学者の手によって誕生した人造人間の怪物は、想像を絶する醜悪さにより、生みの親である科学者フランケンシュタインから捨てられてしまう。そして怪物は自身の生みの親への復讐を遂げ、自らの命も絶とうかというところで終幕する物語だ。

作中の怪物は非常に知能が高く俊敏で、人間をたやすく殺害する残忍さも垣間見せる。これらのストーリーを踏まえると、ハイゼンベルクの本作における姿は、まさに『フランケンシュタイン』のそれである。

ハイゼンベルクも件の怪物同様、自身を異形に変えたミランダを憎んでおり、復讐に向けて着々と計画を進めてきた人物だ。

しかし最後には主人公であるイーサンの手によって、自身の野望は打ち砕かれてしまうのだが、ハイゼンベルクが自らの手で復讐を遂げられなかった点についても、原作に準拠した結末と言える。

実は原作『フランケンシュタイン』において、怪物は自らの手で復讐を遂げることはできていない。科学者フランケンシュタインは怪物との対峙を目前に息を引き取り、怪物は自らの復讐を果たせぬまま、行き場のない感情を抱え込んでしまうのだ。

事実上の生みの親であるミランダを目の敵にするハイゼンベルクは、まさに原作で描かれたフランケンシュタインと怪物の構図である。

自身で復讐を遂げられぬ無念は、ハイゼンベルクの最期からもうかがえる。「 まだ……俺は……ミランダを……」と、共通の目的があるはずのイーサンを前に志半ばで力尽きる姿は、なんとも言えない哀愁を漂わせていた。

自身に驚異的な力を与える一方で、常人であることを終わらせたミランダの罪は重く、ハイゼンベルクは大きな憎しみを抱えることとなる。彼の怒りは人間を強制的に辞めさせられたこともさる事ながら、ミランダの無責任な態度にも原因があるのだろう。

自身の体を改造した挙げ句、用済みになれば処分するとあらば、子どもからすればそれは、例え親であっても許されない背信行為である。

原作『フランケンシュタイン』では、生命を人工的に作り上げる生命倫理についての問いかけが印象的である。『バイオハザード ヴィレッジ』において、この問題に正面から立ち向かったのがマザー・ミランダだ。

あらゆる犠牲を払って子を守ることの愛情については、イーサンの活躍によって全面的に肯定されたテーマである。しかし、すでに死んでしまった子を蘇らせるという倫理についてはどうだろうか。

今作においては、死者を蘇らせる行為については明確に否定されることとなった。

ミランダのように、例えどれだけ愛しい家族や実子を失ったとしても、一度死んだ者を復活させることは、人類やミランダ個人に多大な損失を与えることになるからだろう。

そもそも父母が我が子に多大な愛情を注ぎ、我が身を犠牲にして守ろうとするのは、子どもというのは弱く、常に怪我や死の危険にさらされているからである。

これが、ミランダの発見した特異菌によって、何度でも復活できるようになればどうなるだろうか。子が傷つくたびにカドゥによって再生されるのはミランダからすれば安心かもしれないが、その度に彼女は子への愛情が薄れていくジレンマを抱えることになるはずだ。

我が子が不死身の存在となった時、ミランダが子を以前のように愛おしく思える保証はない、今度は復活させた子に脅威を覚え、我が子の殺害を企むようになるかもしれない。

ミランダの執念深さは100年にわたる研究成果が証明しているが、実は彼女が主張する子への愛というものは、さほど深いものではないことも、四貴族への扱いから推測できるのではないだろうか。

余談だが、ハイゼンベルクが工場でせっせと生産に励んでいる人造人間たちは、映画『武器人間(Frankenstein's Army)』(2013)に登場する怪物たちのオマージュであるとされている。

こちらの映画もまた、死体に様々な機械を合体させた不死身の兵士たちが活躍する作品で、『バイオハザード ヴィレッジ』におけるゾルダートやシュツルムと同じコンセプトのクリーチャーが登場する。

実際に映像を見てもらうとわかるが、造形もほぼ同じである。

後付けではあるが、フランケンシュタインの末裔が機械型クリーチャーを量産しているという設定の映画をオマージュしていることからも、ハイゼンベルクが『フランケンシュタイン』の強い影響下にあることは明らかである。

『バイオハザード ヴィレッジ』の「子供たち」は何を伝えたのか

ここまで、四貴族の心情とミランダとの関係性について考察を重ねてきた。ここから見いだせるのは彼らもミランダの被害者であり、同情の余地が大きな人物たちであったという事だ。

例えミランダに実の子を復活させるという大きな目的があったとしても、その過程で誕生した四貴族たちをもう少し丁重に扱っていれば、団結力を持ってイーサンと対峙できたはずである。

ミランダは素晴らしい能力を持った四人の養子を得ることに成功したが、実の子に取り憑かれた狂気を正すことは最期まで叶わなかった。

母の愛を、子どもたちへ平等に届けることの難しさを表すとともに、子に愛情を届けることの重要性を、ミランダと四貴族の関係性が暗に伝えているのだ。

イーサンとローズ、ミランダと四貴族と来て、『バイオハザード ヴィレッジ』が親子の愛をテーマに描かれた作品であるもう一つの根拠が、エレナとその父が見せた一幕である。

本編とは全く関係のない彼らだが、わざわざイーサンと接点を持った理由もまた、今作が親子の物語であることを改めて印象付けるためではないだろうか。

彼女と彼の父親については、冒頭の一瞬しか登場はしていないものの、偶然出くわしたイーサンへ強烈なインパクトを与えた。崩壊する屋敷の中で、半分ライカンとなっても自分の愛する父を見捨てることはできず、エレナは自ら炎の中に飛び込んでいったのだ。

未来ある少女が先行き短い父のために身を投げる姿は、彼女の父と同じく娘を持つイーサンにとって、あまりにショッキングであったに違いない。四貴族とは対照的な親子の愛情関係が、かの村にも残っていたのだった。

イーサンが気力を振り絞ってミランダに立ち向かい、最期には彼女との心中を選んだのも、冒頭でエレナが見せた、父の愛に報いる光景がトリガーとなっていたのかもしれない。

まとめ:次世代の「バイオハザード」が訴えるもの

『バイオハザード ヴィレッジ』は、母と子の関係を中心に捉えた物語であった。

今作は『バイオハザード4』のフルリメイク版とも言える仕上がりで、あちこちに稀代の名作を元とするオマージュや、明らかな踏襲が見られるゲームシステムや設計なども用意されており、当時を知るファンにとっても大変満足のいく作品だっただろう。

ここまで露骨な「バイオ4」インスパイアを展開した理由については不明だが、一つには「バイオ」シリーズの価値観をアップデートしたいという思いが込められているのではないだろうか。

ラスボスを女性が担うという配役は印象的で、マザー・ミランダのローブの装いは、「バイオ4」の黒幕、オズムンド・サドラーを彷彿とさせる。かつての村長役も、妖艶なドミトレスク夫人へと置き換えられ、今作の看板キャラクターの地位を獲得している。

プレイアブルキャラクターこそ男性ではあったものの、彼の周辺で活躍するキャラクターは従来作品と比べ、明らかに女性が増えている。ミランダやドミトレスク、ベネヴィエント達は、イーサン、そしてその向こう側のプレイヤーに対して、強烈なインパクトを残していったのだ。

そして彼女たちは、いずれも母、あるいは娘としての役割を果たすべく物語に登場し、(文字通り)後腐れなく舞台から去っていった。ジェンダーバランスを絶妙な割合で保ちながら、違和感のないよう母と子の物語を描ききったのである。

そんな母子の物語の中で、圧倒的な男性性を見せたのがイーサンである。どれだけの困難と苦痛に直面しても屈服しない、古典的な男らしさと、たった一人の娘のために命を投げ打つ原始的な「父親」らしさを、孤独に体現したのである。

女性のたくましさや母子の絆の重要性は、今作の大きなテーマとして象徴的に描かれている。しかし冒頭におけるエレナの決断や、成長したローズの立ち振る舞い、そしてイーサンの死力を尽くした救出劇によって、父の尊厳もまた、2021年に保全されたのだった。



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