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まだ芸術についてはよくわからないけれど

絵よりも文章が好きだった。漫画よりも小説が好きで、美術よりも国語が好きで、美術館より図書館が好きだった。
今思うと、家族に連れられて行った美術館で見た麗子像がすごくこわかった、とか、ゴッホの絵は点々でいっぱい描いていてすごかった、とか、そのくらいしか引き出しがなかった。

数年前の夏、陶板名画で有名な美術館に行った。教科書に載っている絵たちが、(本物かどうかはおいておいて)実在するのだと心躍った。この絵はどういう風な絵で、どういうようなことを伝えたくて、どういうようなことが評価されているのか、なんてことを考える余地が与えられないくらい、圧倒的な規模と情報量、作品数。「この絵見たことある!」程度の私でも鑑賞するのが許されている心地になる美術館だった。

同じ夏、現代アートの美術館に行った。美術の授業も嫌いだったので、モダン派、現代アート、なんてよくわかんなくて、インスタレーション?なにそれ?という状態で行った(正確には、インスタレーションという言葉を知ったのは行った半年後)。
「芸術」は「絵」を見て、その価値の恩恵を受けるものという印象があった私の、「芸術」という価値観が、がらりと変わる経験だった。自分とはなにか、なぜ私はこの空を見て、美しいと思うのか、なぜ私は、と考えた後に、再び外に出ると、今までの世界が違って見えるような、そんな美術館だった。こんなに世界は明るかったのかと驚いたのを覚えている。

そのころから、アートに対する苦手意識が変わった。決してなくなったわけではないので、未だに、芸術史とか、美術史とか、勉強したいなとは思うけれどしたいしたい詐欺で手を出せていないのは、結局根本的な苦手意識が取り除けていないのだけれども、アートって、そんなレベルの話じゃないんだなと思えるようになった。

絵がうまいとか、絵が下手とか、評価されているとか、されていないとか。
そういうのはまだよくわからないけれど、その空間にいて、自分を、宇宙を、世界を、肯定したいと思える強さがある作品は、すごく魅力的だと思う。逆に、自分の存在を消したくなるような強い作品も、私はその空間にいることはできないけれど、どこかの誰かにとってはすごく魅力的な作品で、だから「よい」作品なんだろうな、とも思ったりする。

今年の秋。
とある街中の、小さな博物館に行った。
どこかで聞いたことがある遠い誰かの生きていた証を目の当たりにし、自分の人生を重ねた。生きている幸せを、これからも生きていこうという希望を感じた。これもまた、芸術の力なのだと思った。

#芸術の秋

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