1-4: 庶民の出世にはスキルよりもギャンブルを‼
一流大学の研究所ラボのように広々とした文春オフィスには、編集者や記者や作家が30人ほどいて、多くは熱心に仕事をしていた。
清掃員はすぐにチーフ・ルームから出てきた。部屋の角にあった脚立を担ぎ上げ、窓際にあるエアコンの元に向かう。
ヒマな青木はその様子を遠目に見ていた。
どうやらここでもエアコンのフィルターを変えるようだな。それにしても何でこの会社は真夏にそんな業務を頼んだのだろう。
青木はそう思ったが、まもなくその理由が分かった。清掃員の手際がすごく良かったのだ。
遠目にもその手作業のテキパキぶりが分かり、エアコンを消していたのはほんの3分ほどだった。終えるなり清掃員はすみやかに別のエアコンに向かう。
室内には3つエアコンが設置されてあったが、作業は10分ほどで終わった。
清掃員はチーフルームの編集長に声をかけた後、バッグを抱えて出入り口に向かって歩いてきた。
「ごくろうさま、あんたすごく器用だね」
ドア近くのソファから青木がそう声をかけると、清掃員は「いえいえ失礼します」といかにも恐縮したように深々と頭を下げて出ていった。
青木の目に、その後ろ姿はかなり物悲しく見えた。あれほど仕事ができるのに稼ぎの方は少ないのだろうと思えたからだ。
文春編集部の記者であれば、そこそこ器用になっただけで年収は軽く1千万円を超えるだろう。コネもカネもない庶民の頑張りには、それ相応の限られた報酬しかない。
だからこそ俺たちが出世するには、どうしてもギャンブルが必要になる。いくらスキルを上げても状況は何も変わらない。大きなリスクを背負って、格差社会の高い壁を越えねばならないのだ。
青木は1人、そんなことを思った。そして、彼にとってそのギャンブルはまさにこのときだった。
文春は今、誰もが顔と名前を知るような、ある大物衆議院議員のスキャンダルを追っている最中だった。その中年議員には長年に渡って女子中学生を買春していた疑いがかけられていたのだ。
一方、青木は、長年に渡って自社のエロ週刊誌でJK援交ビジネスを取材し続けていた。その実績を買われ、天下の文春から初めて3週間に渡る長期の執筆依頼を受けた。
あまりの依頼に戸惑いながらも、彼はそれを飲んだ。一流紙での専属ライター経験のない平凡な記者にとって、それはまさにギャンブルとでもいえる挑戦だった。
もしこの試みが失敗すれば、二度と一流紙から呼ばれず、一生、三流週刊誌に埋もれていることになるかもしれない。
この長期執筆の成否は、俺のライター人生の大きな分岐点になるはずだ。
そのとき青木はそう意気込んでいたが、後々それよりも遥かに大きな人生の転機に直面するのだった。
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