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茜部神社【岐阜・岐阜市】

茜部神社(あかなべじんじゃ)と読みます。式内社。

岐阜市南西部に鎮座する結構古い神社なのですが、それほど華美な雰囲気もなく、かといって荘厳な雰囲気もなく、参拝する人もまばらです。

茜部地区はかつて「茜部荘」という荘園でした。50代天皇、桓武天皇の荘園として成り立ち、のち奈良の東大寺に寄進されます。

東大寺領となって約120年後の天長7年(西暦830年)、豊前(大分)の宇佐神宮(うさじんぐう)より勧請して茜部神社が建立されます。宇佐神宮から勧請した全国の八幡神社は、その数35,000社を数えるといわれていますが、ここは、その10番目に創祀されたといいます。石清水八幡宮(京都)や鶴岡八幡宮(神奈川)よりも前に建立されているわけですから、古社中の古社といっても言い過ぎではありません。

ところで、この神社、戦国時代に、あの有名な道三と信長の会見が行われた際、信長を見送った後、稲葉山城への帰路で道三が休憩した神社としても知られています。

「うつけもの。あの大うつけに、わしの息子たちは従うことになるやろな」

この名セリフを吐いた場所が、もしかしたら茜部神社だったかもしれません。

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これはあまりにも有名なエピソードですね。司馬遼太郎の『国盗り物語』にも登場します。

20.315風にそのシーンを再現すると、こうなります。

美濃一国をたたき上げで支配した斎藤道三。隣国の尾張の織田家と和睦するため、娘の帰蝶(きちょう=濃姫)を織田信長に嫁がせた。
道三の家臣たちは信長を「うつけ者」「大たわけ」といい、近隣からもそのような噂が絶えなかった。濃姫からも「たわけ者にござります」との伝聞。さらに、「一度、父上(道三)の目で確かめたらよろしいでしょう」といわれ、道三も「ならば」と信長に会見を申し入れた。

場所は美濃(岐阜)と尾張(愛知)の県境、木曽川のほとり富田(現在の一宮市)の聖徳寺。

道三は、早めに現地入りし、聖徳寺から離れた小屋に忍び込み、信長の行列を密かに観察した。道三は、傍らにいた明智光秀に「信長が見えたら合図しろ」と。

馬にまたがる信長は、ヤンキーのごとく、とんでもない恰好で聖徳寺に向かっていた。

光秀は道三に「あいつですよ、信長は」と指さした。

「なんや、あの恰好は・・・俺を馬鹿にしとるんか?」と道三は怒りがこみあげてきた。

行列を眺めていると、長槍500本、弓と鉄砲も500個ほど装備する重層な警護での参上で、見るからに道三以上の兵力を携えていた。道三は心の中で「帰蝶の策略か」とニヤリとした。

そして、会見がスタート。

何と信長は、短時間で正装に着替え、見事な装束であった。所作も申し分ない。

社交辞令と会食を済ませ、会見は終了。

聖徳寺からの帰路、道三一行は茜部神社で休憩した。側近の一人が「やっぱり信長はたわけ者ですわ」と言うと、道三はこうつぶやいた。

「そのたわけ者に、わしの息子たちは従うことになるやろな」

永禄10年(1567年)。会見から約15年後、道三の孫、斎藤龍興は織田軍に囲まれ伊勢国長島へ敗走。

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それまで「井ノ口」と呼ばれた地を「岐阜」と改称し、信長は稲葉山城あらため岐阜城に入城し、「天下布武」の朱印を使い始めました。

こうして、信長は尾張、美濃の2国を支配。

信長は、岐阜城から眼下に広がる濃尾平野を一望し、ここから「天下」への目標がスタートしたと言えるでしょう。

聖徳寺から茜部神社まで直線距離で10キロほどです。茜部神社から岐阜城(稲葉山城)まで約8キロ。

この18キロほどの道中、斎藤道三は美濃と尾張の行く末に様々な運命を思ったのではないか、と20.315は考えます。

【基礎データ】
■創建 天長7年(西暦825年) 平安時代
■祭神 応神天皇(おうじんてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰(たけうちのすくね)
■住所 岐阜県岐阜市茜部寺屋敷3-135
■HP なし

※写真は全て20.315が撮影。
※茜部神社を訪れたのは2019年1月です。
※上記の道三と信長の会見の模様は、20.315の脚色が結構まじっていることにご留意ください。

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