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風の如く生きてみたい
偶然を面白がる
人生はセレンディピティの連続、私はそう思う。
セレンディピティ、即ち偶然の産物。
その先に何があるのか分からない道を進んでみること、そして思いもよらぬ結果に出会うこと、更には何日後、いや何年後かは分からなくとも、その偶然の結果に何らかの意味を与えることができようになること。
その過程全てを面白可笑しく受け止めてみる、そんな人生を生きてみたい。
だから、私の人生にはそんなに沢山の目的がなくてもよい。大まかな目的は少しだけ持っている。けれども、細かいものはあり過ぎると面白くない。
そりゃまあ、入念に綿密な計画を立てて生きていくのが好きな人もいるだろうよ。でも私はそういうのが上手くできない性分だから、そう、つまり楽しんでみるしかない。無計画さによって生まれる偶然を。
たとえばさ、
明日どこに行って何をするか、とか。
そのような計画を立ててしまった瞬間、無計画の自由さ故に出会えたかもしれない偶然を何も手にすることの出来ない、そんな味わいのない明日を選ぶことになる。
もちろん、計画をきちんと立てて明日を過ごしたとして、それはそれで面白い。それでも、何も予定のない明日というものは自分の想定外なことが起こったり、見つかったりすることが多い。
何も定めずふらふらしているだけで良いと思う。きっと偶然から新しい発見や学びを得られるだろうから。
まあ毎日ではなくとも、たまにはそんな日があっても良い。
十年後何をしていたいか、とか。
そんな遠すぎる未来のことについて、私はあまり考え過ぎない。ただし考え“過ぎ”ないだけであって、計画や目標など一切持たない訳じゃない。全くのノープランで生きてしまうと、流石に色々と大切なものを失いかねなくて危なっかしい。
しかし何が起こるか分からない未来、それは私がどれだけ細かく計画を立てたところできっと思い通りにはなってくれない。
人生や未来というものは人智を超えたところにある。だから、そんなよく分からないものについて思案することに多くの時間を費やしても、それはあまり意味をなさない行為のように思える。
風に吹かれるように流されて生き、行き着いた場所で自分なりに工夫して頑張る。ただそれだけ。そしてその過程の中にはきっと、面白い出会いや発見がある。
考えてみれば、人生はこのことの連続だと思う。冒頭で述べたことと趣旨は同じ。
どうしたら良いのか分からない、そんなときとか。
たとえば書店や図書館に行き、手当たり次第本を読んでみる。ただしこんなジャンルの本を読みたい、こんな文章を読みたい、この作家の本を読みたい、などということは考えず。
何でも良いから、とりあえず本を開きさえすれば、何らかの発見がある。その中には、こんな本が読みたいという目的を持っていたときには見つけられなかった、思いもよらぬ発見もあったりする。
そしてその発見を更に広げていくことができるのは、図書館にいることで得られる最大の恩恵。であればその特権を存分に行使しない手はない。
そうやって何かを__それは自分でさえ分からないものだけれど__新たに探そうとするとき、図書館は大変役に立つ。
もし偶然の発見から解決の糸口を見つけられたなら、それはとても素晴らしいこと。そしてその糸口が自分が全く想像しなかった方向へと導くものだったなら尚のこと素晴らしいし、というかむしろそちらの方が面白い。
ほら、またここで偶然が良いはたらきをする。
風の如く、飄々と
それならば私は、明確に目的地を持たない風の如く、飄々と生きてみたい。
目的を持たないことで偶然に出会うこと、それは即ち未来に対して自由な状態であること。そんなものが私は尊い。
どこであろうと、辿り着いたその場所で。
何でも良い。自分なりに意味を見つけ出すことが、一見無意味と思える事象に面白い解釈を与えることが出来れば、ただそれで良い。
他人にとっては他愛もないことかもしれない。しかし私だけが面白ければそれで良い。なぜなら私の人生だから。
失敗さえも
偶然を面白がり、風のように生きる。
そんな自由な人生は、とても遊興に溢れていそう。
ちゃんと計画を立てなさい、然もなければ失敗するよ、と大人には怒られてしまいそうだけれど。
でもいい。
たとえその偶然が失敗に終わったとしても、その失敗にさえもまた何らかの意味を与えてあげれば良いのだから。
その失敗が未来で何かの出来事に繋がったと感じられたなら、それもまた一興。
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