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愛あるバカ、に火が灯る。

眠れないな、パジャマに着がえたし、本も読み終わったし、喉が乾いちゃった。明日学校行きたくないな、体育あるし。給食、おかずがひじきだし。コッペパンにひじきってなんか変だもん。また残したら先生がタコみたいな赤い顔して怒るんだろうな・・・。

ランドセルの中身を確認して宿題のプリントや教科書も入っているのに安心して。少しくらい眠くても朝早くからどうせパパから起こされちゃうんだから。あ、冷蔵庫、冷たい麦茶あったかな?

やだな、暗いし。二階建てってやっぱり嫌だな。前の方が夜は良かったな。階段嫌いだなぁ、ばあちゃんのうちの階段からは落っこちたし。階段の正面がトイレなんて怖いよ・・。

踊り場に灯りをつけてトントントントンと階段を降りる。夜9時には寝なさい、また遅くまで起きてる!って怒られるんだろうな。

あ、洋間に誰かいる。

応接間から静かにジャズが流れている。

ははん、パパまだなにかしてるんだな。トイレ済ませて中、覗いてみよう。

昨日はクラシックだったな、朝早く起きるのにどうして大人って遅くまで起きてるんだろ。子供には寝なさい寝なさいうるさいのに。ずるいや。

パパ? ドアの隙間から声をかけると甚平姿の父がチラ、と振り向く。テーブルにはウイスキー、煙草、灰皿。そして水差し。洋間、応接間の奥の扉は白壁の土蔵に繋がっていてカビ臭くて埃っぽくて。大嫌いなピアノがステレオの横で威張っていて。

なにしてるの?パパ。

バカ。 また起きてきた。寝なさい。

無視して私はソファーに座る。

柔らかそうなネルのクロスがちいさななにかを磨いている。金色の四角い塊。

えっ? まさか?それって金の延べ棒ってやつ?

その金の延べ棒はカチリ、と音を立て、蓋が開いた。

あれ? 父の右手の中で 金の延べ棒はカシュ!っと火を灯した。金の延べ棒の灯す小さな火。金の延べ棒なんかうちにあるわけがないんだよね。
それは、ライターだった。

ふん、パパはな、マッチで十分だ。配りきれないくらいマッチをこしらえてもらったからな。 尋ねてもいないのにぶつぶつ言いながら手の中で光る金色のライターを見せてくれた。

目をパチパチさせてライターと父を交互に見比べて、持ってみていい?と父の手からそのライターをそっと持ち上げてみる。重い。

寝らんか、夜更かしするな、また薄暗いところで本読んでいたのかバカ。
目が悪くなるぞ。
バカ。

父の口癖。 バカ。

またそれも無視してもう読み終わったよー、とライターを返すと父はそのライターでまたカシュ!っと煙草に火を点けてからふうっと吸い込みウイスキーを口に含んでから、なら次はこれを読みなさい、と西遊記を書棚から取り出す。

なにこれ。

孫悟空だ。そんごくう、読みなさい。

うん、と、漢和辞典と古びて黄ばんだ西遊記を受け取りながらそれ重いね、金色のライター、重いね、と返すと今度はうれしそうに、そうだ。ダンヒルだ、京都で買ったんだが派手すぎるな、ふん、お前に持たせたらまた指紋がついたぞ、とまたライターを磨きながら、早く寝なさい、とニヤっと笑った。

ダンヒル?ってなんだろう。

そのライターはどこにしまわれているのかわからなかったけど、ある日やはり夜遅くまで起きていた日、応接間をこっそり覗くと赤いケースにライターをしまい、父は独り言でライターに向かって小さく バカ、と言っていた。

ライターは父のカメラや他、なにか古びた印鑑などがしまわれたサイドボードの引き出しにしまわれていることをある時知った。

宝物なのかぁ、そうかパパはここに宝物をかくしているんだな。見つけたよ。でもなぜ夜一人の時にしか使わないのかな? 不思議だった。

たまたまピアノの練習していて、その日、応接間にもうちにも誰もいないので父の宝物を見てみよう、と引き出しを開けてみた。

赤いケースには石の模様みたいな斑点があり、パカッて開けたらキラ!とライターが光っていた。ケースの蓋の中には外国の言葉がたくさん書かれている取り扱い説明書が入っていた。

そうか、ダンヒルって偉いのか。ふうん。

うん、すごいな、パパ、これを読めるんだ。薄い紙の取り扱い説明書をじーっと眺めてからまたケースを閉めて元に戻して置いた。

父は煙草が好きだった。ダンヒルの話はしなくなって、しまいには煙草はやめなくてはならなくなっていたのが可哀想で。

いつの間にか何十年間も経っているというのに。もう小学生ではなくて。40過ぎたというのに。

一緒にテレビ番組を観ていてもだった。面白ければ バカ。サッカーの試合などを一緒に観ていた時は私は紙に「正」の字を書いて父がこの試合が終わるまで何回バカ、って言うのか数えたこともあったりもした。その数、47回。笑えた。

でも父は決して本当に愚かな人や馬鹿な人に バカ、とは言わなかった。

他人を簡単にバカ呼ばわりしてはいけない、と父は言っていたのも思い出した。

あれから何年たったんだろうか。

父は凝り性なのか、手巻きの煙草をこしらえたり、パイプに煙草の葉を摘めたりしていた時期もあったりもしたくらい愛煙家だったけど。そんな道具はいつの間にか我が家から消えていたのに気がついてから、何年たったんだろうか。

ことあるごとに挨拶みたいに バカ。でも笑顔だったのを思い出されて仕方がなかった。

サイドボードの引き出しは重たくて他には硯や万年筆なども入っていたと思い出す。

父が亡くなってからすぐだった。

私たち姉弟は関係が悪くなっていた。

弟が父の一眼レフを取り出し、あんたの写真ばっかり撮っていたカメラだからやる、と古いミノルタのカメラを投げるようにして寄越した。

踵を返した弟がその部屋からいなくなってから、はっ!!とあの「金の延べ棒」を思い出した。
頭の中で小さな頃見たあの甚平姿が、憎たらしいピアノが、大袈裟なステレオが、父の好きだったミレーの落ち穂拾いの絵が。くすんだ応接間の灯りが。螺旋みたいに頭の集積回路をショートさせながら。応接間のピアノの黒鍵と白鍵の間に挟まれて倒れそうになりながら。
サイドボードは埃をかぶっていて汚れていて往時とは様相が違っていたけど。

重たいサイドボードの引き出しを開けてどこだ、あれはどこにある?ダンヒルのライター・・・。赤い箱のはずだ。ない。ガラクタが他に乱雑に詰め込まれてある。やっぱりもうない。冷たい弟の背中を向けた姿。ガチャン、と玄関を閉める音がした。

・・・見つけてくれ!と訴えかけるようにそれは引き出しの隅にひっくり返って転がっていた。サイドボードの引き出しの中はあの懐かしい古びた土蔵のカビ臭いにおいがした。私が「金の延べ棒」だと間違えたあのダンヒルのライター。

・・・あった・・・。

肩から力が抜けるのを感じながらも後ろめたさを感じながらも。
私は誰にも内緒でそれを持ち出したのだった。

カシュ!
やはり、 火はつかなかった。

いつからだろうか。父はこれを磨かなくなっていた。

時折思い出したように「高いライターなんか失くす、100円ライターでいい」などとも嘯いたりもしていた。

いろんなことを父は我慢していたんだ、と。その金色のライターには火は飛ぶのに炎はあがらない。壊れたりはしていないはずだわ。
そのうちこれ、直してやろう、と赤いケースごとダンヒルのライターを自分のハンカチにくるんでバッグにそっと、しまった。

金のダンヒル。他人がちょっと見せてみろ、とかいじろうともしたけど燃料の入れ方すらわからなかった。ガスライターなのに市販の各メーカー対応ライターガスもやはり、合わない。

ダメか。やっぱり壊れてるのかな。否、そんなはずない。

・・・そうか、ガスも特殊だから買うのをやめたんだ。父はライターにガスを入れるのをやめたんだ。

そういえば父はあまり自分の洋服も買わなかった。贅沢なライターにはお金を掛けず、好きなものを我慢していたんだろうな・・・。私たち子供や家族の暮らしのために。宝物だっただろうに。笑顔の中ではさぞや苦虫を噛み潰していたはずなのに。

なぜだか笑顔ばかりしか思い出せなくて。父の笑顔を思い出す度にこの「金の延べ棒」から 頑張れ!、って言われてる気がしてつらかった。

なぜいつも笑顔だったような気がするんだろうか。たくさん怒られたはずなのに思い出せないんだ。
私。

もう60年くらい昔の年代物だ。壊れてしまっているのかもしれないけどな、と思いつつ、恐る恐るそのライターを百貨店の中の正規店に持ち込んでみた。

これに火がついたらもう一度、あの愛ある バカ、 が聞こえるような気がして。

笑われるかもしれない。ガラクタだから。馬鹿にされるかもしれない。それこそバカだ。

紺色の制服を着た女性店員さんが丁寧に鑑定してから お父様の思い出のお品です。オーバーホールに出してみませんか?見た限りは壊れてはいないようですので、直されて使われてはいかがでしょうか?とその女性は言ってくれた。百貨店の店員さんの売り上げるためのよくある常套句かもしれないのに。

ネットオークションなどでは似たり寄ったりのライターが安価で出ているみたいだったけど。
ケースやメーカーの取り扱い説明書、他、全て揃っているし、どこでいつ頃購入したのかもわかっているダンヒルのライターをやはり生き返らせてやりたい、と思い、その「常套句」を言う紺色の服の女性にお願いします、と私は頭を下げた。

オーバーホールっておいくらですか?

提示された価格に怯んでしまっていたのだった。それに私には今、自由なお金はないに等しい。

通常のオーバーホールだけでもネットオークションのダンヒルのライターよりはるかに、びっくりするほど高かった。今の私にはあまりにも贅沢過ぎる投資には間違いない。しかも禁煙が叫ばれてから高級なライターは必要性がなくなり、売れたりはあまりしないのはちゃんとわかっている。                だけど。

百貨店からかかってきた1本の電話。

預けてから2か月くらいして手元に戻ってきたあの「金の延べ棒」。

百貨店には人はまばらでダンヒルの正規店には他にお客様は一人もいなかった。

なにしてんだろ。お金もろくに稼げなくなっているのに、私なにしてんだろ。

勧められた椅子にかけるのも後ろめたい。身分不相応だと自分を責めた。

点火なさってくださいませ。確かめてくださいますか。

カシュ! 手の中に思い出が映りだされた。 まぁるい小さなオレンジと青の炎はあの頃の真夜中の応接間に私をタイムスリップさせた。

灯火がくれたあの愛ある 「バカ」。

あ・・・。 唇を噛み締めながら肩を震わせて溢れ返る涙を堪えられず、マスカラが溶けて青い涙がボタボタ床に落ちているのに。私はその場で泣き止むことができなかった。端からみてそれはさぞや滑稽な姿だっただろうに。

おかしいでしょうね、たかがライター1個で・・・。そう呟いた私にいいえ、とその担当女性は首を横に振り、しっかりした声が帰ってきた。

大切に使われてくださいませ。お父様のために・・・。
本心に聞こえた。
それは、営業の常套句には本当に聞こえなかったのだった。

帰りついてからそっとあの昔の応接間を思い出しながら。応接間の奥の扉の向こう、カビ臭い埃っぽいにおいが鮮やかに鼻腔に蘇る。

大変保存状態がよくて通常のオーバーホールのみで大丈夫でした。

・・・保存状態が良かったのはライターではなくて、あの懐かしい父の姿を思い出せる私の心だった。大丈夫なのは父への私の真心だった。涙で溶けたマスカラの青が白いマスクも、百貨店の床も父の愛した青い箱の煙草の色に染まったのだった。

銘柄はたしか「あおぞら」と書かれていた気がした。パッケージには今の季節の空のような青い空の絵が描かれていた。

写真の前に煙草を供えて父の日に間に合った、と手を合わせた。

カシュ! 金のダンヒルは私にこう言った。

・・・ バカ。

灯火が呟いた。カシュ! バカ。

確かに父の声が聞こえて私は初めてそのダンヒルで自分の煙草に火を点けた。

ぽうっと灯るオレンジ、そして青い小さな火の温もりはあの懐かしい応接間の温もり、父の膝の温もりみたいで。愛ある あの バカ、が確かに聞こえた。

小さな思い出のひとこまにふーぅ、と煙を吸い込む。そしてカチリ、とライターの蓋を閉じて。思い出の引き出しを静かに封印して私は父みたいに夜遅くまで起きていた。
金の延べ棒なんかよりもこれは私にとってずっと、ずっと価値がある。このダンヒルのライターは明らかに女性向けではないデザインをしている。持ち歩くことはまずないけど。タバコを辞めるつもりはない。ライターは必需品であるから上等のライターはやはり私には贅沢な相棒なんだろう。

でも何回も灯してあのニヤ、って顔を思い出しながら。

開けてはカシュ!火が灯る。煙草をゆっくり喫いながら。
じわり、とまた目頭が熱くなるのを感じた。

カシュ!

あの愛ある 「バカ」、 がもう一度聞こえたような気がした。

                      ゆー。




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