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ほんのしょうかい:八木雄二『キリスト教を哲学する』春秋社〈『思想の科学研究会 年報 やまびこ』より〉

八木雄二『キリスト教を哲学する』春秋社
人はことばで物事を知り、ことばで動かされる。しかし、それを受け止めるのはひとりひとりの心のうちでしかない。このことについて、八木は、前著の『一人称単数の哲学』(春秋社)でも人称を手がかりにして、詳しく取り上げているが、キリスト教を中心に、<わたし>、その心のうちに留意し、哲学、宗教、文学、科学を検証するように綴ったのがこの一冊である。

宗教というものは、社会を正しく指導するものなのか、個人の心を救うものなのか。人類は太古の原生林を捨て、集団で暮らし始め流。都市を、社会を築き、その身体にそぐわない歪みを抱え始める。知ること、選ぶこと、共に暮らすこと、従うこと従わないこと、降りかかるさまざまな問題を判断し、選択をする、その中で、思考は複雑になり、また判断の根拠が己から遠ざかっていく。
そして、規範が生じ、政治と宗教の原型のようなものが発生していったのであろう。けれどもそれは<わたし>の心を必ずしも納得させてくれるものではなかった。それを慰撫するように身体につながる芸術、文学が呼び寄せられたのかもしれない。
権力者の言葉、司祭の言葉、それは、自分の心の平穏にそぐわなくなっていく。私は、自分と変わらぬ人間を、敵として攻撃していいのか、罪人として石を投げていいのか。人を使役していいのか。既存の社会や宗教の戒律に対する疑問が浮かび上がってくる。
ここに自己革新としての宗教を改革しようとする人が現れる。イエス、釈迦、親鸞、道元。この段階に至って、わたしの問題として、“個人に対しての「救いの力」”(本文55p)のために“個人の日常生活における自己革新を導く”ことを見出したものとその教えによって、<わたし>の問題としての宗教が、生まれたのであろう。
けれども、その教えに引き寄せられた人が集まるにつれ、新しい社会が形成され、その中で権力者や指導者が生み出されてもいく。そして宗教が権力や政治に近づき<わたし>は置き去りになっていく。そして今日は、哲学に架橋されて、科学が力を持つ時代である。ただ、その科学も、いつしか市場や社会、資本や権力に飲み込まれていっている。
<正しさ>という鎧をまとって、宗教を飲み込んだ社会の跳躍として、科学の跳躍として、世界で起きていることを考えたとき、人類は、生き物としての人間らしさを失いながら、このような人間性というものを手に入れたのかもしれない。論理的正しさと統計的集計をもとにするAIに、制限なしに人類が起こす悲劇をなくすにはどうしたら良いかと聞いたら、人類が絶滅すれば終わるという答えがでてもおかしくはあるまい。
人類の歩みを止められない今日、ことば、そして、自分の心を考え直そうとしたときに、哲学を使ってキリスト教を検証しようと試みるこの本は、手にとってみるべき一冊だと思う。
                                       (本間神一郎)




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