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Leicaに憧れる理由、選ぶという意志。

はじめはただの憧れだったと思う。
SLを買った時の自分はまさにそう。
だって何も知らないのだから。

10年以上前から理由もなく惹かれる写真には何度も出会いがあり、どうしてこんなにも違うのだろうと思って調べたことが、Leicaと僕の始まりだった。

仕事柄、写真データを扱わない日はないというくらいデジタルデータを補正することには馴れていても、そうした小手先で触りようがないと思わされた写真、それはLeicaで撮影されていた。


誤解されると困るのであらかじめ断っておくと、優劣による一軸の評価によってこの話は結末を迎えない。そんな理由で僕はLeicaを選んでいるのではない。

眺めて楽しむということでもない。
僕にとってのLeicaは、教えを乞いたい先生のようなものだ。

まさに息を呑んで、Leicaで撮影された写真に見入ってしまった僕は、どうしてもその理由を、ある時から知りたくなった。そして、Leicaに魅入られた人がそうするように、僕もさまざまな文献を読み漁り、たくさんの方が撮影した写真を見た。でもそれでは永遠に近づいた気がするだけで何もわからない。そう思った。

日本メーカーのカメラも、それまでにそれなりには使っている。その頃は写真が好きだからというわけではなく、そこにあったから、あるいは欲しいという必要に迫られて、その時に自分にとって良いと思うカメラを買っていたと思う。


自分にとって日本のメーカーのカメラが見せてくれる写真は、なにかこう見飽きてしまっているというのが本音だ。広告の世界に見かける写真というのはだいたいがNikon、Canonあたりで、最近ではそこにSONYがはいってる。

その絵作りというか思想が結実したデジタルデータを、僕は20年以上、毎日のように見ているし、補正や調整、加工なんかをして嫌になるくらい切り刻んできた。傲慢でも、それが広告という仕事のリアルだ。


Leicaに惹かれるのは、僕にとってあまりにも異質に見えたからだと、今になって思う。あらゆるベクトルが自然体というなかに綺麗に収まっている。焦点距離や露出、構図やなんかも。

数値化された指標でLeicaは決して圧倒的に優れたメーカーではない、と僕は感覚的に思う。さりとて劣っているということでもない。その軸線上にLeicaはいない。

今だに手作業で製造を行う古臭いメーカーだし、歴史を振り返ってみても器用なメーカーではない。2000年代までは右往左往しながら必死に生き残ってきた、どこか泥臭いメーカーだと、僕の知る限りではそんなイメージを持っている。

でも、だからこそなのか、多くの方はみなLeicaという存在に一目を置いているように見える。

SLを買う前に、散々国産機も検討した。でもどれも好きになれなかった。というか他のカメラに目を向ける前に、Leicaを好きになっていたんだと思う。

憧れを現実にして、僕はSLを手に入れた。
それが2年ほど前のことになる。

SLは余計なことは一切しない。設定の項目なんて説明書を読まなくても使えるくらい。そしてあのアルミの削り出しのボディ。はじめて手に持った時、これは工芸品だと思った。シャッターを切った時、指先に伝わる感触でこれはもうエンジニアリングの芸術だと思った。


Leicaは裏切らない。

脇が甘い時はあるが、きっちり時間とコストをかけて仕上げてくる。そんなプロダクトだから、手に持つと嬉しくなる雰囲気がある。そんなふうに思う。


実際に使ってみてわかることはたくさんあった。
いいとかわるいとかじゃなくて、現実を体感する。

知識を得ることと、体験することは次元が違っているように思う。
それはLeicaだから良い、ということではないと僕は感じている。

僕の場合は、自分の知らない世界を教えてくれる感覚と、本当に必要なことしかしてくれないLeicaは、やっぱり好きな存在なのだと思う。教えを乞いたいと言ったのは、容易には扱いきれない。これが答えです、なんて言ってくれない。

自分のしたことがそのまま出てくる。

こういうことか。
そう感じた瞬間に、世界が変わって見えてきた。


性能とか機能とか新しさは、実は関係がない。


好きなもので写真を撮りたいという気持ちと
それを実際に行動して叶えること。
憧れを現実にする勇気をもって一歩を踏み出した時、
確実に変わる心。

カメラは写真を撮るためのものだ。
写真はいつだって自分次第。
そこに誇りと喜びを持って集中するための道具。
それがLeica。

僕にとってのLeica。
自分はこの道具を選びたい。

世話を焼いてくれない、いつもわからないこと、シャッターを切った結果に常に戸惑いや喜びを内包している。

その感覚は色褪せない。ものとしての質感、いい加減に扱わせない佇まいがその感覚に重みを与える。

それは大袈裟にいうなら、いつも今ここにいる感覚を決して失わせない。


写真を撮るためにLeicaを手に取る。

道具としてのLeicaは
僕にとって、そんな存在だと思う。

憧れと選択の意思は、始まりと終わりの循環の中にある。

Leicaだから素晴らしいんじゃない。
僕はそう感じている。


好きなものはやっぱり好き。
それ以上でもそれ以下でもない。

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