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心の中で輝きたるは

大変ご無沙汰しております。つれづれつづり会員番号2番です。
コロナ禍がいちばん酷かった時期もどうにかやり過ごし、日常に戻っています。
あの、沈鬱な様子の人々、灯りのない飲食店、家から極力出ない日々、今となっては現実だったのかなと思うこともあります。
もう会えない親族がいたり、お気に入りだったお店がなくなっていたり、確かに現実だったはずなんですが。

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「豊かな思い出は、人生が苦しいときに自分を支えてくれるのよ」
母の言葉だ。いつかの誕生日に言われた記憶がある。

兄弟や友人と話すと気付かされるが、俺は幼少期のことをやたら覚えている人間のようだ。あのとき何が聞こえて、どんな肌感覚があって、何が見えていたか、どんな香りがしたか、など、五感でいきいきと思い出して語っているそうだ。
ちょっと気持ち悪いとも言われる。自分でもそう思う。

俺が子どもの頃、我が家からは海がよく見えた。
海面は春の陽光を映してキラキラと輝き、沖を通るタンカーからは低音の汽笛がよく響いた。ちょっと臭い潮風が頬を撫でていると、今度は空高くからトンビの鳴き声が。むせかえるような暖かい空気の中、野球の試合をしている近所のグラウンドから、金属バットの心地よい打撃音が聞こえてくる。
そして、眠りにつく時間には街は静まり返り、遠くから踏切のカンカンという音だけが届いてきた。街は眠っているのに、まだどこかで誰かが起きていることが感じられて、俺はこの時間がとりわけ好きだった。

いきいきと思い出されるこの時期、俺はとても幸せだったのだと思う。
親の保護のもとで、好奇心の赴くままに色々な経験をし、まだ勉強どうこうに縛られない日々。何もかもが新鮮で、世界がとにかく眩しかった。

いい歳の大人になった今も時々、花の香りや、蝉の鳴き声、野焼きや石油ストーブの匂いに触れると、心の中に子ども時代の記憶がグワーっと蘇って、自分でも驚くくらいの生きるエネルギーが湧いてくることがある。

人の記憶はその人のアイデンティティであり、人生そのものだと思う。
過去を振り返らないことは大切だけど、思い出は強力なエンジンだ。
俺にとって、幼少期の記憶と、それにつながっているたくさんの感覚は、これからも大切な宝物なのだろう。

だから、年齢を重ね切り、色々なことを忘れてしまった時、自分は何者になるのだろうかと思う。その時は、自分の色々なエピソードを覚えている人たちが、自分を定義してくれるかもしれない。
「あの時 あなたはこう言ってくれた」とか、自分は全然覚えてないのに、相手が鮮明に覚えていたりするものだ。



それでいいのかもな。
あまり変なことやらないようにしなくちゃね。

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