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廃墟に棲む夢を見る。

廃墟に棲む夢…を見るのだけど、そもそも人が棲まないから廃墟であって、これは矛盾した表現なのだ。都会に行き、地下鉄の入口から湧き出るような人の流れを見ていると、そういう都会の住人は廃墟など実感、関心もないのだろうけど、地方ではじわじわと廃墟の波が押し寄せ、その波が引いたあとは、砂山、瓦礫、枯れた木の枝が散乱しているだけの荒地となっている。これが人口減少という結果を目にすると、何も言葉が出ない。数年前までは美しい棚田の風景が、次第に耕作放棄地が増え、管理された青い田の間に、草ぼうぼうの荒地が挟まり、写真を撮ろうにも残念…無念の思いが強くなり、カメラのシャッターを押す気も失せる時がある。

そんな荒廃した地方の惨状をなんとかしょうと、国が手を打ったのが「地域興し協力隊」てな、如何にも大手代理店のコピーライターがネーミングしたような口当たりの良い空虚な言葉なのだ。いつも思うのだが「ふるさと納税」も「地方創生」とやらも同じ言葉の響き、大手の営業、コンサルチームがプレゼンでゲットするための土の匂いのしない見栄えだけの軽い言葉なのだ。

先週のNHKのクローズアップ現代で特集していたけど…番組で取り上げた、シンボリックな失敗ネタよりも、個々人の体験を積み上げ、討論会でも開いた方がリアルでいいのではないかと思う。僕がたまたま知り合った人は、その協力隊事業の初期の人で、東京で数人公募があり、選ばれた数人は全国各地に放り出され、その人は天草のある地域に赴任した。その事務所に行くと彼は1戸建ての家に一人住んでいた。その事務所の向こうの山の斜面には立派なログハウスが2棟、畑付きで建設されていた。確かその事業の管轄は農林水産課だったような気がする。その立派なログハウスに都会人は棲み、その地域に移住するかどうか、判断材料にするのだそうだ。どうやらその町は、ログハウスの建設予算を国から欲しいだけなのか?という気もした。その人の事務所の横には地元のおばさんたちが運営する食堂も検察され、ひと時その地域は賑わいを見せたが、その食堂も閉鎖、知り合った人もいなくなり事務所も空き家のままになった。

人口的にできた廃屋の景色なのだな。施設の海はまだ綺麗なのに。「地域興し協力隊」というネーミングそのものが矛盾していて、地域の町には「地域振興課」「経済課」なる専門部門があるのにその彼らが無能なるがゆえに、都会に住んだ「協力隊」の手を借りるのが矛盾なのだ。あきれて驚くしかなかったのは和水町が以前、町が地域の特産品の開発までして、その特産品の販売者、移住者を公募したり、東陽町が石工の里の観光振興策を新聞チラシで公募したりしていた事を知ると彼らは何も考える力がない…そんな彼らにポンと予算を渡す考える力のない彼らの上司が迷宮を作っている事実が多々ある事なのだ。

熊本ではそんな無能役場の職員が協力隊を、こき使ったり、放任したトラブルの事例が新聞に掲載された。中には各町や村を渡り歩く協力隊の人材も居て、ついこの前、ある村便りに載って頑張りますと言っていた人が、僕の市の市政便りに載っていて、頑張りますとコメントしたりしている。町や村も国から人件費や体験施設の建設費をもらえるから、当たれば儲けもんと思っているだけなのだろう。つまりどっちもどっち。

そうして人口自然減による廃墟と、出たとこ勝負の屁理屈だらけの「地域お越し」の失敗の人工的な廃墟が重なり地方は更に落ちぶれて行く。

地域の発展の為、振興の為とか…言葉にすればするほど、嘘になる言葉には用心しないと。きれいごとの言葉で埋め尽くされた暮らしの中では、何も生まれはしない。地域興しとか地方再生とか、安っぽい言葉を使うのはやめよう。そんな言葉では問題はリセットされない。ワーケーシヨンとか、何それ?そんな場所でパソコンをパチパチしている人など見たことない。(そんな施設を作れば、国から予算が出るのか?)

と、いう事で…僕の廃墟に棲む夢の1ページ目が開かれる。

寂れた温泉街の路地裏、目の前を横切った猫の写真を撮ろうと、空き地に足を踏み入れ、草生した廃屋を見上げると、そのツタのからまるガラス戸の奥に微かな灯りが見え、どうやらその建物は廃屋ではなく、誰かの住処だったのだ。草むらをかき分け、その部屋へのさび付いた階段を登ると、ちいさなドアがあり、金魚の風鈴が下げられ、風が吹くとチリリと鳴った。逃げていた猫が顔を出し、ドアの向こうから声がし、ドアのすきまから白く細い手が伸び、その猫を抱き寄せる。階段を這いつくばる僕の体は、周りの蔦や、雑草に絡まれ身動きが取れない。なつかしい、なつかしい草の香り。夢の香り。

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