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第8節 美少女女神セーラーセレーネ

 
 『美少女戦士セーラームーン』と武内直子様をはじめ、多くの皆様へ敬意を込めて――。


 ―――――――――――――――――――― 


 老人の家で、女神は言葉を失った――。

     *

 東京都、港区みなとく某所。

「いやぁ~、にしてもこんなことが起こるとはねぇ~。長生きしてみるもんだねぇ~」
「あなた、本当にそればっかりね。もう少し何か言えなくって?」
 ベッドの脇に腰掛けて、淡く長い紫色の髪を左右で結い上げている少女はそう言った。
「わるいねぇ~。面白いことの一つも言えなくて……」
 少女とおそろいのゆっくりとした穏やかな口調で喋る、八十代くらいの男性は、ベッドの上で身体を起こして微笑んでいる。
たちがあんなふうになってしまった鬱憤を、少しは晴らせるかと思って召喚に応じてみたというのに。まさかマスターがこんな老人だなんて、残念で仕方がないわ……」
「わるいねぇ~。でも、僕もびっくりしたよ。まさか、本当にサーヴァントが召喚されるなんてねぇ~」
 そう言って、老人は枕元のスマートフォンに視線を向けた。
 ボケ防止にと孫から進められて始めてみたゲームに、思いのほかハマってしまったことも予想外だったが、まさかそのゲームから登場人物が飛び出してこようとは夢にも思っていなかった。
「――しかも、こんな姿で」
 老人がそう言ってしげしげと見つめる少女は、胸元の大きなリボンが印象的なセーラー服に身を包み、手には女児向け玩具のようなステッキを持っていた。
「今年のハロウィンイベントの主役は、ステンノちゃんなのかねぇ~。えっ、かはっ! かはっ! ……悪いけど、水を一杯もってきてくれないかな」
「私に仕えるどころか、私を使おうとする男がいるだなんて。サーヴァントになるというのは、おかしなものね」
 そう言ってステンノは優雅に立ち上がると、台所に向かい、間もなく水道水を一杯んできた。
「ありがとうねぇ~、ステンノちゃん」
「女神の気まぐれよ。……本当は私の微笑みで虜にしてしまってもよいのだけれど、いつも同じではつまらないものね。せっかくこんな姿で現界したのだし、今回は趣向を変えてみることにしたの」
 ステンノの言葉を聞きながら、美味しそうにゆっくりと水道水を飲み干して老人が笑う。
「はっはっは。今回は自分に無理難題を課してみる、というわけだね」
「あなた、またそれを言うのね。これは本当に、無理難題ではないのよ?」
「はっはっは。確かにステンノちゃんの笑顔もとっても可愛いけどねぇ~。孫たちの笑顔には、やっぱりかなわないよ」
 そう言って一呼吸おいてから、老人は仏壇の方へと目を向けた。その目はすぐそこの仏壇を見ているようで、もっとどこか遠くを見ているようだった。
「――僕には悦子えつこもいるしねぇ~」
「……うふふ。何度でも言えばいいわ。この聖杯戦争が終わる頃にはあなた、聖杯に私との蜜月を願うようになっているに決まっているのだから。今の内に、思い出の中の偶像を存分に愛しておくといいわ」
 ステンノの言葉に老人はうつむいて、右手の甲に視線を落とす。そこには、“慈愛に満ちた杖の令印”があった。
「すまないねぇ~。ステンノちゃん、本当は戦いに行きたいんだろう。僕がもう少し元気なら、一緒に行けたんだけどねぇ……」
 老人はここ数日、よく夢を見た。優雅で可憐な笑顔の裏に、怪物のような憎悪をくゆらす、一柱の長女の思いゆめを――。
「何を言っているのかしら? 私はマスターなんかと連れ添わなくたって戦えるのよ? 私が微笑めば、周りの男たちは、忠実な私のためのお友達になるのだし。少しはしたないけれど、血を吸えば魔力だって得られるわ。これはハロウィンの仮装なのだから、それくらいの貢ぎ物は受け取って当然でしょう? それに、今の私にはこのステッキだってあるのだし。なにより、忘れられない記憶が。私にいつも、力を与えてくれているわ……」
「それなら、いいんだけど……」
 申し訳なさそうに微笑む老人に、ステンノは高飛車な微笑みを見せる。
「そんなことよりあなた。聖杯戦争に勝利したら、何を願うつもりなのかしら?」
「何を願う、ねぇ~……」

 ――聖杯戦争。
 それは、あらゆる願いを叶えるという“聖杯”をめぐり戦う争い。
 此度こたびの聖杯戦争では、スマートフォン向けアプリゲーム『Fate/Grand Order』という縁を通じてこの世界に混入した聖杯が発端となり、“電子聖杯”によって選ばれたマスターたちと、七騎のサーヴァントが参加している。
 そして、サーヴァントが倒されると電子聖杯はその魂を溜めこみ、六騎分の魂が溜まれば、およそあらゆる願いを叶えるに足る魔力が捻出できるようになるという仕組みになっている。
 つまり、この聖杯戦争に勝ち残れば、およそどんな願いも叶えることが出来るのである。

「孫の、幸せかなぁ……」
「あら、意外だわ。てっきり、悦子さんともう一度会いたいだとか、そういう願いなんだと思っていたのだけれど」
「はっはっは。確かに悦子は大事だよ。優劣なんてつけるものじゃないとは思うけれど、それでも、もしかすると孫たちより、悦子の方が大事かもしれないねぇ~……。
 でもね。僕たちは、不老不死じゃないからねぇ~。子孫を残して、次の世代に繋いでいく、人間だからねぇ~。だから、もういいんだよ。僕らは。よくはないけれど……、なんて言えばいいのかねぇ~。はっはっは」
「そう。不死身の私には、わからないわ……」
 視線を所在のない場所に向けて、ステンノは言った。
「はっはっは。んんっ! かはっ! かはっ、かはっ、かはぁっ!」
「コップをくださいな、おじいさん。私、なんだか水を汲みに行きたい気分なの」
「……ああ。ありが……かはぁっ! かはっ!」
「聞こえなかったのかしら。一人でどこかに水を汲みに行きたい気分なのよ、私。だから、私にコップを渡しなさいと命じているの。感謝なんて、いらないわ」
「ああ、ああ、ありがとう」
 そう言って苦しそうに微笑んだ老人から、可憐にコップを受け取ったステンノは、速足でされど美しく水を汲んで戻ってきた。
 老人はやはりお礼を言ってから、またゆっくりと美味しそうに水道水を飲んだ。
「…………やっぱり、違うかなぁ」
 不意に老人が呟いた。
 黙っていたステンノが口を開く。
「何が違うのかしら?」
「いや、願いだよ。聖杯に願って、与えられた幸せで、本当に幸せなのかなぁと思ってねぇ~」
「……」
「はぁ……。はっはっはっ。年寄りはいけないねぇ。ついつい考えすぎてしまう。若いころなら、それこそ悦子との幸せなんかを迷うことなく願ったんだろうねぇ~。年を取ると、いけないねぇ~……」
「いんじゃなくって? 思慮の浅い男は、それでも勝てば英雄だけれど、負ければただの愚か者よ」
「優しいんだねぇ、ステンノちゃんは」
「ええ。これで少しは魅了されたかしら? 私に愛を捧げるために、残り少ない命を使いたいというのなら、そうさせてあげなくもないのよ?」
「はっはっはっ。それは遠慮させて貰おうかなぁ」
「そうよね。あなたはそういう人だわ」
 老人がふと、良いことを思いついたというような表情になった。
「いい願いを思いついたよ。いや、僕の勝手な願いなんだけどね。ステンノちゃんがもしも、受肉して、僕の孫とお友達になってくれたら、それが一番かもしれないなぁってねぇ~」
「私が? 私が受肉して、あなたの孫のお友達になるですって?」
「うん。サーヴァントなら、何かあったら助けてくれるだろう? あの子もFateが大好きだからねぇ~。きっとステンノちゃんとお友達になれたら、喜ぶよぉ~。……でも、ステンノちゃんにとっては、嫌だよねぇ~」
「そうね。私だけが受肉して、ずっとこの世界で生き続けるだなんて、退屈してしまいそうだわ」
「そうだよねぇ……。いやぁ、わるかった。忘れてくれ……」
 老人はそう言うと、枕元のスマートフォンを手に取った。電源を入れると、ロック画面に娘夫婦と孫たちの写真が映し出される。
「会いたかったなぁ……」
 ぽつりともらすように口からこぼれた老人の言葉に、ステンノが言葉を返した。
「会えばいいじゃない。生きているのだから。お互いに」
「はっはっは。そうだねぇ~。本当は、お盆休みに会いに来てくれるはずだったんだけどねぇ~。コロナの騒ぎで、それもなくなってしまってねぇ~。高齢者はリスクが高いから、もしも僕がコロナになったら大変だからって言ってねぇ~。田舎じゃないとはいえ、やっぱり周りの目もあるしねぇ~」
 寂しそうに画面を見つめてそう言う老人に、ステンノは言った。
「馬鹿ね、人間って。あなたたちは、不死身ではないのでしょう? 不死身のたちだって、あんな風に終わりを迎えたというのに。そんな疫病にかからなくたって、もう少しであなた、死んでしまいそうじゃないの。それなのに、会いたい人に会わないだなんて、馬鹿みたいだわ」
「はっはっは。それもそうだねぇ~……。でもねぇ。人間にも、色々あるんだよ……」
「そうね。私にはわからないけれど」
 ステンノはそう言うと、ベッドから立ち上がり歩き出した。
「もう、行くのかい?」
「ええ。今日は東の方へ行ってみようと思うの。自分の足でどこかへ行くというのも悪くないものね。ずっと島やベッドの上で過ごすよりも、ずっといいわ。エウリュアレとメドゥーサがいれば、もっといいのだけれど……。ああ、安心してくれていいわよ。女神は疫病なんかにかからないから」
「はっはっは。いってらっしゃい。また明日、待ってるよ」
「ええ」
 律儀に玄関から出ていこうとするステンノの背中を見送りながら、老人は呟いた。
「ステンノちゃんの言う通り、かもしれないねぇ~……」
「? 何か言ったかしら?」
 振り向くステンノに老人は微笑みを返す。
「なに、ちょっと考え直してみようかと思ってねぇ~」
「あら、やっと私に魅了される気になったのかしら」
「はっはっは。そっちじゃないよ。いや、なに。やっぱり、年を取るといけないなぁと思ってねぇ~……。年を取ると、考えることも、しがらみも、多くなるし。頭も固くなってしまうからねぇ~……。もうちょっと何かいい方法はないか、考えてみようと思ったんだよ。ありがとうねぇ、ステンノちゃん」
「……よくわからないけれど、私はもういくわ。また明日ね」
「はっはっは。いってらっしゃい、ステンノちゃん」
 穏やかな昼下がり。
 太陽の日を浴びに、ステンノは住宅街にくり出した。

     *

 翌日――。
「♪~」
 パステルパープルのミニスカートをゆらし、ステンノは上機嫌で老人の家へ向かっていた。
 腕に下げている小さな籠には、二つの林檎とステッキが入っている。林檎と籠は、見知らぬ男に貢がせたものだった。
――たまには私が林檎を切ってあげる、というのも悪くないわね――
 ステンノはそんなことを考えながら、軽やかな足取りで閑静な住宅街を歩いていく。その可憐さに、時折りすれ違う人はみな振り返る。
 老人は林檎が好きだと言っていたのを、ステンノは覚えていた。よく悦子がウサギの形に、こんな風に切ってくれたんだと嬉しそうに話していたのだ。
 ウサギの耳を彷彿とさせる髪飾りで、二つに結んだ左右の髪を、ロップイヤーの耳のようにたらしながら、ステンノは思ったのだ。
 ――私が林檎をウサギの形に切ってあげたら、あの男も少しは私に魅了されるんじゃないからしら――。
 ご機嫌なステンノの鼻歌が、不意にとまった。
――サーヴァント?――
 何故だかはっきりとはわからなかったが、サーヴァントの様な、やけに捉えどころのない気配を感じて、ステンノは鼻歌を止めたのだった。
 それは、目と鼻の先の老人の家から感じられる。
 そして間もなく、マスターである老人と自分を繋ぐ魔力のパスが途絶えた。
 ステンノは目を見開き、駆け足で戸口に向かいながら籠を投げ捨て、はたから見ればすーっと消えるように体を霊体化させドアをすり抜けた。
 サーヴァントは霊体化することで物理的な干渉力をなくし、ドアをすり抜けることも可能なのである。しかし、戦闘時の回避手段に使われないことからも示唆される通り、一瞬でその切り替えができるわけではない。
 その切り替えにかかる時間が、戦士の攻撃を回避できない程度のほんのわずかな時間が、今のステンノには酷くじれったく思えた。
 靴も脱がずに廊下に上がり、ステンノは老人の姿を探す。そしてその目に老人の姿が映る。
 老人の家で、女神は言葉を失った――。
「おやおや、お孫さんですかな。随分と懐かしい格好をしていらっしゃる」
「……あなたはだあれ?」
 そのセリフは可愛らしいものであったが、その語気には強い敵意が込められていた。
わたくし、葬儀会社のゲイリー・ネットと申します。この度はお悔やみ申し上げます。ええ、それはもう心より」
 やけに血色の悪いスーツ姿の男が、流暢な日本語でそう言った。
「面白くもない冗談はやめてちょうだい。サーヴァント? この部屋、なんだかはっきりしないけれど、とっても濃い魔力の反応があるわ。彼を殺したのはあなたかしら?」
 ステンノにそう言われ、ゲイリーと名乗る男はにっこり微笑んだ。
「おやおや、もしや故人と交流の合った近所のお子さんかな?」
「私の問いに答えなさい」
 少女の穏やかではない語気とステッキを握る動作に、ゲイリーと名乗る男は慌てた様子を見せ、なだめるように手で制して言った。
「おっと、お嬢さん。お待ちください。わたくし、どなたかと戦うような気は微塵もないんですよ。ええ、それはもう本当です。神に誓って断言しましょう。神が死んでいたとすれば、ならばそう。蛇女の姉妹にでも、白痴の魔王にでも誓って申し上げます。わたくしはどなたとも最後の最後まではとてもとても戦う気などございませんと。決して、決して。それは、それだけは本当でございます。
 その上で申し上げましょう。まず、彼を殺したのはわたくしではございません。女神の麗しい瞳を前に、サーヴァントでもない脆弱な人間風情であるこのわたくしが嘘をつけますでしょうか?
 もちろんわたくし、このような死と関わる仕事を生業なりわいとしておりますから。魔術に関しましてもほんの少しばかり精通しておりますが、この部屋に満ちているのもわたくしめの魔力ではございません。
 今しがた、何やら怪しい魔術的な偽装の痕跡を発見いたしましたので。それをですね、今しがた解除したところではありますが。今さっきまさにその時、わたくしが彼を殺したなどということは断じてございません。彼はずっと前に息を引き取ったのです。ええ、ええ。それはもう、そうでございまして。
 ですが確かに、このご老人の老衰死には不可解なものがございました。それこそ、サーヴァントの魂喰いにったのだとでも考えれば辻褄が合うような不可解な点が」
 そう言いながら、ゲイリーと名乗る男は胸ポケットに手を入れ、一切れのニュースペーパーを取り出すとステンノに手渡した。
「……」
 ステンノはいぶかし気に男からそれを受け取ると、日本語のその記事に目を落とす。その見出しは、聖杯によって知識を補完されているサーヴァントの彼女にならば、一瞬にして内容を理解できるものだった。
「新宿は、わたくし共のような普通の人間にとっては、電車にでも乗ってえっちらおっちら相当な時間かけて行かなくてはならない距離ではございますが、サーヴァントであればどうでしょうねぇ……」
「……本当に。本当に、彼は死んだの?」
「……この白い布をどけて、安らかな死に顔を拝んでいかれますかな?」
「……結構よ。人間って本当、あっけないものね」
 ステンノはそれだけ言うと、老人の右手から視線を上げ、男には目もくれず部屋を後にした。
「……」
 後に残った男は一人、ゆっくり戸口へ向かっていくと、少女が残した籠を見つける。
 籠から真っ赤な林檎が一つ、転げていたのを拾い上げ、シャクリとそのまま噛りついた。