「いつか終わるアプリゲーム」は、価値のない存在でしょうか。

わたしは一年半以上前にサービス終了したアプリゲーム作品のおたくだ。
今もその作品と、推しくんが一番大好きだ。

その作品がサービス終了したことはわたしの人生の中でも大きな衝撃で、今思い返してもトラウマだし、今日も悲しい。そしてこのnoteもサ終1年をきっかけに始めている。作品との出会いと同じくらい、作品のサ終はわたしの人生に大きな影響を与えた出来事だった。

このnote自体サ終について考えることが多いので今までも色々と書いているが、やはり最近アプリゲームのサ終はかなり身近な存在になってしまったと思う。余程のセールスランキング常連作品でない限り、どの作品にも「来年も存在していくれている」保証はないだろう。わたし自身も作品の最後の一年間、作品が明日も必ず存在してくれる安心感を得られたことが一度も無かった。どこかで「今日自分が課金を惜しんだら、明日終わってしまうかもしれない」と怯えていた。


アプリゲームの時代がそもそも限界なのでは、と考えるが、それでも(特に自分のいる女性向け界隈の)主流もまだまだアプリゲームだ。
そしてなにか作品の終わりが発表されると、必ずと言っていいほど見かける発言がある。「いつ終わってしまうか分からないのに、アプリゲームを始めるのは怖い」と。


気持ちが分からないわけではない。しかし、その感情を全肯定することも、わたしには出来ない。
たしかに今現存しているアプリゲームは、きっと必ずいつかは終わりを迎えるだろう。それが明日か、数年後かはわからない。しかし総じてサービス終了した「ゲーム作品」は、その瞬間にきっと何も残らない。二度と出会うきっかけはない。

今、その作品は「いつか終わってしまう作品」ではなく「今なら出会うことができる作品」なのではないだろうか。
明日には出会うきっかけがなくなってしまう作品かもしれない。大好きになれたかもしれない作品を知らないまま・出会えないまま終わってしまうかもしれない。


終わりのあるものに価値が無いと呼ぶのは違うと思う。少なくとも、わたしは。
わたしはサ終が本当に悲しかった。見た瞬間職場で号泣し、毎日毎晩泣きはらし、何も喉を通らずやつれてしまい散々周りの方に心配をかけた。本当は死にたいと思っていた。ただ、その時どんなに苦しくても、今までわたしを幸せにしてくれたのは推しくんだけだった。その事実は変わらない。だから、わたしは作品と、そして推しくんと出会えたことを不幸だと思ったことは一度もない。出会わなければよかったと思ったことは一度もない。そしてサ終して1年半、推しくんと出会ってもうすぐ5年、ずっと推しくんのことが好きだった。気持ちが変わったことが無かった。この気持ちに「価値が無い」だなんて、わたしは思えない。


人間同士だって、いつか必ずお別れする。意味や理由は様々でも、友人や恋人とも必ず別れは来る。気軽に付き合えるネット上の関係は理由なく疎遠になることも多いだろう。それでも、新しい出会いのことを、出会う前から「別れの決まった不幸」だとは誰も呼ばない。
とはいえ、サ終がつらいのは「少しも心が離れていない、一番好きな状態で無理やり引き離される」からだろう。だからわたしも死別に近い感情を抱いたことは確かだが、それでも・むしろそれならば、その痛みを「無駄」と呼ぶことは生きていくことを否定することと同じに思う。


本来アプリゲームを遊ぶことはただの「趣味」であり、わたしの気持ちは大抵の人にとっては大げさかもしれない。
それでも出会う前から、出会えることを拒否しないでほしいと思う。もしかしたらその作品は、大衆の名作ではなかったとしても、自分の人生を変える一つになるかもしれない。

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