社会貢献不適合者の悩み
いま僕は実質的に無職である。これまで働いてできた資産や、その資産を元に行う投資により、ささやかな暮らしを成り立たせている。
この先、勤めるとか、事業をはじめることがあるかもしれないが、なにかに追われてそうするのでなく、なるべく自分のなかで湧き上がる直感や、信頼のおける人間関係をベースにして、選択を行っていこうと考えている。
先日、幼馴染の女性と食事をした。彼女はフリーランスで、アパレルの仕事を大きなクライアントと一緒に長いこと続けてきたのだが、最近働き方をガラッと変えた。今はケータリング?の仕事をしている(あまりわかっていない)。
彼女とはなんの気兼ねもなく話すことができる間柄だ。
「また働きいよ、身体と頭を使った方が老けこまんけんモテるし、社会貢献したほうがいいって!」彼女にそう言われ、その場ではそうかもねえ…と濁した。確かにモテた方がいいだろうから、仕事にせよそうでないにしろ身体と頭をなんらかの形で動かしたほうが良い、という点には異論がない。
だが「社会貢献」という言葉にはどこか引っかかる所があった。社会貢献そのものには否定的な気持ちはない。企業や影響力のある人が、世の中を少しでも良くしようという活動はさらに増えて欲しい。ひっかかったのは、働く動機として社会貢献を置く部分だ。
聞けば、就職活動でも学生が社会貢献を志望動機としてあげ、何らか携わりたい…、みたいなことを言う事があるらしい。しかしつい最近まで学生で社会経験がなく、コロナウィルスの影響もあり社会との関わりが希薄だった人間がどんな社会貢献を一体…と思う。
キャリアを重ねた社会人も大差ない。たまに言われることだが、組織で力を発揮出来ているのはせいぜい2割くらいのものだ。その環境が合わなくて実力を出せないのか、元々能力がないのか分からないが、社会人として仕事で力を発揮するまえに、社会貢献というのは順序が違うような気もする。
結局のところ僕は、社会貢献それ自体より、その大義を大っぴらにする事、それを目的化することに違和感があるのだろうと思う。大っぴらな目標を掲げる所にどうしても気恥ずかしさがあるし、一個人ができることは些細なのに、なんか偉そうではないかという自虐的な気持ちもある。
だから、なるべく人に気づかれないように、自分にできることを出来るサイズで、何なら社会貢献とはまったく逆に見えるような形はないものか、というひねくれた思いがある。
親戚の家の話だが、墓参りに行って線香や蝋燭を入れる小物入れを開けると、いつもだれかが500円玉入れており、後日、それは近所に住むあまり仲が良くなかった、しかも随分と前に越していった人が犯人(表現がおかしいけれども)だったということがあった。社会貢献ではないのだが、そういう何とも言えない、桁の小さな行為に憧れてしまう。
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