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蘇る苦い感覚

2023年2月のホーチミン旅行はとても楽しかった。コロナウィルスの流行以降、久しぶりの外国だったし、その期間中、地元っ子(といっても充分に中年だが)のデイビッドが何から何まで世話を焼いてくれたから、こちらはただあちこちに出かけて行って喜んでいれば良かった。

帰国の日もぎりぎりまで同じ調子だった。朽ちたアパートメントの屋上に突如現れる、風が気持ち良いレストランで夕食を摂り、南ベトナムの共産党が武器庫として使っていたという古民家を再生したカフェに寄り、残り時間を過ごした。ベトナムに入国してから続いた、物珍しいものに出会っている刺激と旅行特有の昂ぶりが入り混じり、愉快な気分は高原のようになだらかに続いていた。

その後、デイビッドと共にホテルに戻った。チェックアウトはすでに済ませてあったが、深夜のフライトまでトランクを預けていたからだ。

引き換え券を渡してトランクを受け取ると、ドアマンの若い男がトランクを運んでくれた。デイビッドとドアマンはベトナム語で何か話をしながらホテルの外に出て行く。デイビッドは、流しのビナサンタクシーを止め、僕のトランクをドアマンに積むよう指示し後部座席に乗った。僕も乗った。タクシーはタンソンニャット国際空港向けて走り出した。

デイビッドが言った。
「彼は危なかったですね。」

彼?僕は聞き直した。

「ドアマンですよ。彼はええと…」デイビッドは日本語が思い浮かばないと、スマホですぐ単語を調べて僕に見せる。iPhoneには、強盗、と書いてあった。

強盗?彼はドアマンだろう?どうしてそんな…。

「あなたの行き先やフライト時間を細かく知りたがった。だから怪しいと思ったんです。」

ドアマンが、客のフライトに間に合うか気にして、車にことづけるのは良くあることだろ?
あのホテルはめちゃくちゃ高級というわけでもないがチェーンだし、ビジネスマンの利用も多い。ドアマンが強盗の一味で、自分が手配するタクシーとグルになって悪いことをするなんてあるかね?僕は少しだけ苛立っていた。

「思い過ごしなら、いいんですけどね。私も過去何度も騙されたことがあって、ドアマンのあの…」デイビッドはそう言って、またスマホで何らか調べた。今度は、人相、という単語を見せた。「人相、が良くない。」

僕は自分の苛立ちが、デイビッドの強い猜疑心に対してではないことに、とうに気づいていた。記憶をたどると、チェックインの際に件の若いドアマンを既に見かけており、彼の表情や物腰に、フロントや他のドアマンにない、少し危うい匂いをほんの一瞬感じたことを思い出したのだった。

苛立ちは、久しぶりに外国に来たのに危険を感知できなくなっていた自分の鈍さや衰えに対してのものだった。旅の愉しさといつも表裏一体でくっついている危うさとか緊張感みたいなものを数年ぶりにあらためて思い出した。今回は、デイビッドがいつも横にいることでその感覚が戻ってくるのが帰国直前になってしまった。情けないことだ。

やがて空港が近づいてきた。デイビッドありがとう、いろいろ世話になったね、良い経験をしたよ。タンソンニャット国際空港は見送りの人で沸き返っていたが、乗客以外は中に入れなかった。礼を言い、次は東京で会おうとデイビッドとはそこで別れた。

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