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鮎川誠さんのこと

鮎川誠さんの音源にはじめて触れたのはYMOのソリッドステートサバイバーで、僕は福岡に住む田舎の子供だったから、ギタリストのクレジットを確認などしなかった。やがてスネークマン・ショーでシーナ&ロケッツのレモンティーに触れ、その流れで真空パックを聴き、鮎川誠という名前を認識した…という流れだった。

要はYMO周辺のテクノ関連、ニューウェーブ関連のミュージシャンだと思っていた。中学校に入り、友達の影響でモッズ、ARB、ルースターズ、ロッカーズといったバンドを聴き始めるのだが、そうした福岡に縁が深いバンドの先輩、というふうにはしばらくの間結び付かなかった。まだ、彼等の音楽を掘り下げて聴いていなかった、ということもあるし、鮎川誠さんの見た目も大きかった。アメリカ軍人と日本人女性の間に産まれた彼は、細身で背が高く丹精なルックスで、眼鏡やサングラスが似合い、当時から黒いレスポールを抱えるために生まれてきたような完璧な佇まいで、他の福岡のミュージシャンよりずいぶん垢抜けて見えた。地元とは距離があったのだ。

一方で、彼らの音楽に触れ、サンハウスから続くキャリアも知り、メディアで鮎川誠さんの言動に触れるとまた違った面があることを知っていった。それはブルースを根にロックンロールを幹に持つ彼の確固たるロックへの姿勢であり、筑後をベースにした、福岡の言葉や文化の揺るがない人間の核である。

彼を知る多くの地元っ子たちは、そんな鮎川誠さんを愛し続けた。それは音楽関係者だけでなく、広告関係や一般の市民もそうだったのではないか。彼が選んだ職業はロック・ギタリストであり、彼が選んだファッションもロックを体現した黒づくめのもので、捉えようによってはedgeのたったものだったが、彼は何十年にもわたり地元のコマーシャルに採用され続けた。

僕自身が彼のライブを初めてみたのは、1986年の福岡大学七隈祭でのことだったと思う。記憶はかなり曖昧だが、確か野外で予定されていたが雨が降り、急遽体育館で催されたのではなかったかと思う。湿気の多い会場で、マーシャルのアンプに黒いレスポールを直接繋ぎ、「ガリガリいわせて」いた映像を思い出す。

その後、福岡で東京で、何度もライブを観る機会があった。サンハウスの活動再開、高橋幸宏や細野晴臣との共演、内田裕也とのジョニーBグッドのセッション…今となっては、そのライブを経験出来たことを改めて幸福に思う。そうしてブルース、ロックンロール、ロック、パンク、ニューウェイブの全てをリアルタイム経験し、日本や世界のミュージシャン達と広く交際し、黒いレスポールで自身のロックをアウトプットを続けた彼の稀有なキャラクター、表現したロックの器の大きさ、筋の通った活動にあらためて驚嘆するのである。

1996年か97年の頃だっただろうか。当時僕は東京に住んでいたが、福岡に戻り福岡市中央区大名の居酒屋で飲んでいたときに鮎川誠&シーナ夫妻、松本康氏(福岡の著名なレコード店ジュークレコードのオーナー 2022年9月28日逝去)が入ってこられたことがあった。昔からのファンとしては我慢出来ず、近くのローソン(ポプラではなかった!)までノートとマジックを買いに走り、失礼を承知でサインをお願いしてしまった。鮎川さんは気軽にホイ、とサインをしてくださり、傍らのシーナさんに「オイ(シーナもサインばしちゃれ)」とノートを渡された。シーナさんは「いまは東京にいるの?じゃあ次は東京のライブで会いましょう。」と優しく仰った。松本さんは隣で微笑まれていた。僕はサインを貰えた嬉しさももちろん、なんというか、大げさにいえば、地元福岡の街が東京やロンドンやニューヨークとロックを通じて繋がっている感覚をその場で経験できたような気がしてとても感動した。

それは例えば…ミックジャガーとキースリチャーズが駅のホームでレコードを見せ合ったとか、ジョーストラマーがクラブでビールの列に並んでいて日本人に順番を譲ったとか、ロックを通じたそうしたエピソードを自分も持つことができ世界と繋がれたというような…といえばいいだろうか。とても説明しづらい。

ただその説明しづらい、感謝というか愛情というか感動というもの…は多くの人が僕と同じように鮎川誠さんに感じていたと信じる。鮎川誠さんが亡くなられた時、ネット上での多くの人が自身との関わりを書き込んでいた。2023年2月4日、彼にお別れをいうために代田橋で静かに並んでいた数千の人々がいた。皆同じように思っていたのではないか。

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