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量子力学はどうしてこう初学者に冷たいのか


愚痴まじりの前振りから


これまで何度か吐露したことですが、私はある段階よりずっと、数学も物理学もその周辺の諸々とともに事実上独学で歩いてきました。

私のことを「偏屈」と決めつける方もいました。中3のときの担任教諭(国語)で、もうずっと前に鬼籍に入られている…と思います。私は偏屈ではなく、何かがおかしい、何かが飛躍しているとひとより少しばかり敏感に感じ取ってしまうにすぎないと、今でも思うのですが、きっと「そういうところが偏屈なんだ」とねじ伏せられるのがオチなので、言わないでおくつもりですとボケてみたくもなります。

この性格は、私の半生において少なからずマイナスに働いてきました。

しかし今はそれほどマイナスには感じなくなっています。「量子力学」という呼称が生まれて今年でちょうど百年だそうです。この学問は、とにかく初心者には冷たい、「がたがたいわずに覚えやがれ慣れだ慣れ」みたいなところがあります。

たとえばディラック記法と呼ばれるものがそうです。


ディラック記法の登場が唐突すぎる!

以下は『今度こそ理解できるシュレーディンガー方程式入門』という、タイトルに偽りありの書物にある、ディラック記法の解説です。(p51)



唐突に「*」が出てきます。はてなんだっけこれ?と読む側が思っても、何の説明もなしにです。


実はひとつ前のページで「複素共役」と一応説明はされているのですが…


いったいどうしてここでいきなり複素共役が出てくるのか、解説がじぇんじぇんないのですよ。


量子力学の入門書はどれも初心者にとても冷たい

この本に限らず、ほかのどの入門書もこんな感じです。とにかく唐突に「今のうちに覚えてくれ」「慣れるんだ慣れろ」をこれでもかと繰り出してくるので、読む側にすればどんどん不安が増して、自分の立ち位置がわからなくなって、やがて「才能ないんやろかあたし」と自分を責めだすのがパターンです。

どうしてどの本もこんな有様なのかというと、今取り上げたブラケット記法は、量子力学が成立してよりかなり後になって、教科書に採用されたものだからです。

実際、ディラックが伝説の教科書『量子力学』を刊行したのは1930年でしたが、上記の記法を提唱したのはもっと後の1939年の論文で、それをこの教科書で採用するのはさらに後の1947年の第三版からでした。

天才ディラックでさえ、数学における双対空間の考え方を消化してこの記法に整理するのに、何年もかかっていたのです。

なにしろこの双対空間論なるロンは数学の当時の最先端で、数学者たちによって洗練された形になるのに、やはりそれ相応の年月がかかったのだから、物理学者にすればそれをずっと待たされたのだと、いえなくもないと思います。

詳細は後日また語るつもりですが、そういうわけで現代の量子力学の教科書は、量子力学の発展史に必ずしも沿った書き方をしていません。後世になって形になったものを、まるで当初から判明していたかのように紹介して「はい覚えましょう」を繰り返すことが、実に多いのです。


パパとママが互いを理解しあえないなか息子はどんどん歩いていった

これ、仕方がない面もあります。

量子力学は、物理学と数学の当時の最先端がブレンドして発達したものです。ところが一方で、物理学者は必ずしも数学の最先端を追っているわけではないし、数学者も物理学の最先端を追っているわけではありません。

喩えるならば物理学と数学というパパとママが、お互いを理解しきれないでいるなか、我が子・量子力学がパパとママのそれぞれの天才DNAを受け継いで神童ロードを歩んでいって、その様をパパとママがそれぞれ半分ずつしか理解できないまま後を追っていった、そんな感じです。

数学者はあくまで数学視点でしか量子力学くんを語れないし、物理学者はやはり物理学視点でしか我が子を語れない。

肝心の量子力学くんというと、パパとママの双方の言語を理解するバイリンガルさんで、ときどき振り返ってはパパとママが互いの言語を理解しきれないでいる様に呆れつつ、また前を向いて我が道を進んでいったのです。


パパとママのあいだに共通理解を!

カギは複素数平面の理解にあるのではないか、と前から私は考えています。

それから「次元」の理解と、「無限」と「無限小」の理解。

ガウスまで遡って、物理学と数学の共通理解言語を開発していくしかないのかなって、前から漠然とイメージしています。


続きは後日。

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