見出し画像

ポール・ディラックの原論文を読んでみよう(1926年:q 数と c 数)

ディラックの論文は、少なくとも二十代のときのものは非常に読みにくいです。ちょうど量子力学の誕生と混乱期に重なることもあって、天才肌の彼のロジックは、俗人にはなかなかついていけなかったようです。これまで何度か紹介した話ですが、後にノーベル賞を授けられることになる日本の俊英・湯川秀樹&朝永振一郎のふたりも京都帝大生のころディラックの最新論文を必死に読み込んでは「腹が立つ」「泣きたくなる」と愚痴っていたほどです。

当時の彼の論文が読みにくい理由のひとつは、奇妙な用語を使うことにありました。q-number とか c-number とか。前者はABーBA≠0となる奇妙な代数の数で、後者はABーBA=0となる数、つまり日常でつかう数のことです。ABーBA≠0にディラックがどこまでも固執したのは、これが古典力学の数式にさりげなく頻出する非常に重要な形式でありつつ、量子力学という当時の前衛力学においても欠かせない、極めて有効な式であると、彼が強く意識していたからでした。その最初の成果が、前年11月に受理された彼の論文 "The Fundamental Equationa of Quantam Mechanics" でした。前にこのブログで取り上げた論文です。


さて今回取り上げるのは、1926年1月22日に受理された論文 "Quantum Mechanics and a Preliminary Investigation of the Hydrogen Atom"(量子力学と水素原子の予備的研究) これがどうやら、q数とc数について彼が提唱した最初と思われます。


冒頭を順に見ていきましょう。

§ 1. The Algebraic Laws governing Dynamical Variables.

Although the classical electrodynamic theory meets with a considerable amount of success in the description of many atomic phenomena, it fails completely on certain fundamental points. It has long been thought that the way out of this difficulty lies in the fact that there is one basic assumption of the classical theory which is false, and that if this assumption were removed and replaced by something more general, the whole of atomic theory would follow quite naturally. Until quite recently, however, one has had no idea of what this assumption could be.

DeepL くん翻訳よろしく。「うんいいよ」

§ 第1節 動的変数を支配する代数法則

古典的な電気力学理論は、多くの原子現象の記述においてかなりの成功を収めているが、ある基本的な点では完全に失敗している。 この難題を解決する方法は、古典理論のある基本的な仮定が誤っており、この仮定を取り除き、より一般的なものに置き換えれば、原子論全体がごく自然に導かれるという事実にあると、長い間考えられてきた。 しかし、ごく最近まで、この仮定がどのようなものなのか、皆目見当がつかなかった。


続いてこんな風にポールくんは論を進めていきます。

A recent paper by Heisenberg provides the clue to the solution of this question, and forms the basis of a new quantum theory. According to Heisen­berg, if x and y are two functions of the co-ordinates and momenta of a d yna­mical system, then in general xy is not equal to yx. Instead of the com­mutative law of multiplication, the canonical variables pr (r l...u) of a system of u degrees of freedom satisfy the quantum conditions, which were given by the author f in the form

where i is a root of — 1 and h is a real universal constant, equal to (2rc)_1 times the usual Planck’s constant. These equations are just sufficient to enable one to calculate xy — yx when x and y are given functions of the p ’s and s, and are therefore capable of replacing the classical commutative law of m ulti­plication. They appear to be the simplest assumptions one could make which would give a workable theory.

DeepL くんよろしく。「やってみます」

ハイゼンベルクが最近発表した論文は、この問題を解決する糸口となり、新しい量子論の基礎となる。 ハイゼンベルクによれば、xとyが力学系の座標とモーメントの2つの関数である場合、一般にxyとyxは等しくない。 乗法の可換則の代わりに、u自由度系の正準変数pr(r l...u)は量子条件を満たす。

ここでiは-1のルート、hは実数普遍定数で、通常のプランク定数の(2rc)_1倍に等しい。 これらの方程式は、xとyがp'sとsの関数であるとき、xy - yxを計算するのに十分なものであり、古典的な乗法の可換則を置き換えることができる。 これらは、実行可能な理論を与える最も単純な仮定である。

ヴェルナー・ハイゼンベルクの名がでてきます。「彼の最近の論文」とあるのは、前年1925年7月に受理された、例の論文のことです。内容についてはこちらで概説済なので興味のある方は読んでおいてください。


ポールくんの論文に戻りますね。

The fact that the variables used for describing a dynamical system do not satisfy the commutative law means, of course, that they are not numbers in the sense of the word previously used in mathematics. To distinguish the two kinds of numbers, we shall call the quantum variables q-numbers and the numbers of classical mathematics which satisfy the commutative law c-numbers, while the word number alone will be used to denote either a q-number or a c-number. When xy = yx we shall say that x commutes with y.

DeepL くん訳してちょ。「うんいいよ」

力学系の記述に使われる変数が可換則を満たさないということは、当然のことながら、数学で以前使われていた言葉の意味での数ではないということである。 2種類の数を区別するために、量子変数をq数、可換則を満たす古典数学の数をc数と呼ぶことにする。 xy=yxのとき、xはyと可換であると言う。

でてきました。AB=BAになる数は「可換」でc(classic:従来のもの)、そうならない数はq(quantum:量子)と呼ぶ宣言。


この後、q数とはどういうものか、ポールくんは説明します。

At present one can form no picture of what a q-number is like. One cannot say that one q-number is greater or less than another. All one knows about q-numbers is that if zx and z2 are two q-numbers, or one q-number and one c-number, there exist the numbers zx + zxz2, z2zx, which will in general be q-numbers but may be c-numbers. One knows nothing of the processes by which the numbers are formed except that they satisfy all the ordinary laws of algebra, excluding the commutative law of multiplication, i.e.


DeepL くん出番です。「いきまーす」

現在のところ、q数とはどのようなものなのかイメージすることはできない。 あるq数が他のq数より大きいとも小さいとも言えない。 q数について知っているのは、zxとz2が2つのq数、あるいは1つのq数と1つのc数である場合、zx+zxz2、z2zxという数が存在し、これらは一般にq数であるが、c数である可能性もあるということだけである。 乗法の可換則を除く通常の代数法則をすべて満たすこと以外、この数ができる過程は何も知らない。


前年(1925年)11月受理の論文では、ハミルトン力学に伴う「ポアソン括弧」に着目して、それがABーBAの形をしていることからq数のアイディアに到達するところで終わっていましたが、今回の論文(1926年1月)ではいきなりq数から話を切り出して、これこそが量子力学の真髄であると宣言しつつ、論を進めています。

その検証の数学的議論はかなり長いものなのでここではとばします。論文の中盤、第5節 "Orbital Motion in the Hydrogen Atom"(水素原子における軌道運動)のなかでポールくんは、この宇宙におけるもっともシンプルな原子・水素の電子軌道について、彼のq数理論でもって説明できると訴えてきます。


かっこよさげな計算式が10ページほど続いた末に、こう締めくくるのです。「この仮定に則れば、水素原子のスペクトラムが計算可能となるであろう」(意訳)と。

待てぃ!


その計算過程、よーく読むと、あなたが崇拝していたというシャーロック・ホームズの推理並みの決めつけ理論やないですかポール。道路に落ちていた帽子ひとつから持ち主の職業から夫婦仲まで言い当ててしまう、彼の名推理にワトソン博士は驚嘆するのですが、よく考えたらただのあてずっぽうなんですよねあの推理。それと同種の決めつけ論法で、ポールくんは水素原子の電子軌道についてこじつけ説明をしているのです。結論はあっているのだけど。

ちょうどこの論文が受理されたのと同じ月、つまり1926年1月、パウリとシュレディンガーがそれぞれ独自に、水素原子の電子軌道について論文を投稿しています。三人とも互いの論文内容については知らないで、そして三人とも異なるやり方で、同じ答えを出していました。

ウォルフガング・パウリはハイゼンベルクとは大の仲良しで、彼がボルンやヨルダンといっしょに行列を駆使して研究を進めていることを受けて、パウリもまた行列を駆使して、ハイゼンがその新理論でうまく説明できないでいた水素原子の電子軌道について、うまく説明する論文を書き上げていました。

シュレディンガーは、ハイゼンとは違うアイディアに基づいて、水素原子の電子軌道について、パウリよりもずっとスマートに解き明かしていました。今でいうシュレディンガー方程式を提唱し、それを解くことでこの難問を解決してみせたのです。

ポール・ディラックによる解き方はというと「q数こそ量子力学の主役!」とする彼の信念が先走ってしまって、論理の飛躍が随所にみられるものに終わりました。


ただ彼はその後、q数理論を足掛かりにして、さらなる難事、すなわち特殊相対性理論に量子力学を整合させるという難問に挑み、2年後にはそれに成功してパウリやハイゼンベルクやシュレディンガーの度肝を抜くことになります。その前にコンプトン効果についてq数で迫るという、野心的論文をこの1926年に書き上げていますね。前に取り上げたお話です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?