「子猫物語」のテーマ曲を分析しよう
映画「子猫物語」の監督が亡くなりました。畑正憲。通称・ムツゴロウ先生。フジテレビに動物番組を提供して視聴率をたっぷり稼いでいた方です。その縁で同局が彼に映画を撮らせてあげました。私はほぼ未見です。ずっと昔にテレビの深夜枠で放映されていたのを数分拝見したくらいです。音楽が坂本龍一。特に特筆するようなできではないけれど、彼が招集した音楽家たちは、この翌年に「ラストエンペラー」の音楽についても再結集して彼のもとで大活躍することになります。
これがテーマ曲「ワタスゲの原」の主旋律部分。実際に聴いてみましょう。
例によってドレミ表記していくと、
実はこの楽譜、調号がおかしい。(緑色で括ったところ)
私が弾いてみるに、上のパートについては「A♭メジャー調」、すなわち緑で括ったところの「♭」は、本当は三つではなく四つなのです。
下のパートについては、
調号(紫で括ってあります)にあるように「E♭メジャー調」です。
上の段と下の段で、調性が異なっているわけです。
視覚化すると、こんな感じ ⇩
しかしこれは、あくまでこの楽曲を音のままに解釈した場合です。物理的には、こうやってひとつ(つまり一段)のキーボードで弾かれています。
旋律と和声が、異なる調性で音を奏でる…これは彼のほとんどの楽曲に通底する特徴です。おそらくドビュッシーの曲を中学生の頃から聴きこむうちに(無意識に)編み出していった作曲技法です。
ただ「子猫物語」のテーマ曲は、そのなかでも変わり種です。というのは、彼の楽曲は、左手と右手が5度違いの調性を奏でるのが定石なのですが「子猫」については「5度」ではなく「4度」違いなのです。
珍しいことです。どうしていつもの「5度」違いではなく「4度」を使っているのでしょう?
その謎解きは後に回します。これよりいつものあれをやります。音符にドレミを書きこんでいくという、あれです。旋律からいきましょう。(赤で書きこんであります)
このドレミは、あくまで右手限定での調性解釈に基づくドレミです。もし左手側の調性解釈でドレミにすると、
赤で括ったところに注目。「シ」が「シ♭」になってしまっています。つまり少々不自然なドレミになるわけです。
ということは、このドレミ解釈のほうが自然ですね。
しかし左手(本論考では和音とほぼ同義)については、調号どおりのドレミ表記をしていきます。(紫で書きこみました)
冒頭は「ファ・ラ・ド・ミ」和音(の変形)ですね。いわゆるサブドミナント和音。メジャー和音でありながらどこか女性的で、浮遊感があります。龍一はこの和音から曲を奏でるのがお気に入りのようです。
だんだんと音が階段を下りて行って、
おっと「シ」が来ると思ったら「シ♭」です。どうしてここでいきなりドレミ音階から逸れてしまうかというと…
この「シ♭」は実は「ファ」だからです。
面白いですね、後半で左手が、右手側の調性にいつのまにか滑りこんでいるのですよ。
すなわち4度上に調性が変わっているのです。右手さんの調性に。
どうしてこんなフェイントを仕掛けてくるのかというと、おそらくトニック和音「ド・ミ・ソ」とドミナント和音「ソ・シ・レ・ファ」を鳴らさないようにするためです。
この二つの和音は、男性的な響きで知られています。子猫を音楽で描くには、少々マッチョにすぎるのです。
代わりにサブドミナント和音「ファ・ラ・ド・ミ」、それも異なる二つの調性におけるサブドミ和音を主体に、このテーマ曲は設計されているのです。
巧いものですね。余談ですが、後に龍一は、あるラジオ番組であの大島監督にこの映画の裏話をしていました。「市川崑さんから『このシーンの音楽を変えてくれ』とメッセージをもらったので、そうした。そこを変えても何も演出に変わりはないと思ったが、いわれたのでそうした」と。どこのシーンだったのでしょうね少し興味があります。ちなみに市川は「子猫物語」の編集を任されていました。素人監督の畑では心もとないということでフジテレビが市川に協力をお願いしたと伝え聞いております。
畑さんさようなら。あなたの『ムツゴロウの青春記』をきっかけに私は『解析概論』(高木貞治)のことを知りました。
[4月13日追記] 映画「ET」のテーマ曲を、RS は意識しながら「子猫」のテーマを書いた気がします。機会があったら比較して論じてみたいですね。
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