宗教も教育も「より良く生きる」を増やすため。黒住教8代目 黒住宗芳さんインタビュー
岡山で約200年続く神道系の宗教、黒住教(くろずみきょう)。
朝日を拝む「日拝(にっぱい)」を最も大切な神事とし、教えを広め伝えています。
将来8代目教主を継承する立場の黒住宗芳さんは、宗教者だけではなく、一個人としても岡山を盛り上げる活動を次々と展開し、県内外に広い繋がりを築いています。
宗教者が語る教育って、どんなものだろう?
そんな一つの問いから、宗教者が考える教育について、黒住さんにお話を伺いました。
プロフィール
宗教者の枠を超えた活動
——本日はありがとうございます。宗教と教育の接点が自分でも明確になっていないんですけれども、今回は様々なお話が聞ければと思っております。はじめに、黒住さんの普段の活動について教えてください。
現在は黒住教の公室長という役職をいただき、宗教者として神職のおつとめと同時に、教団運営の実務方に重きを置いています。
やはり組織である以上、他の多くの法人や団体と同様に、時代に応じて経営や広報のアップデートが必要なのです。
また、黒住教の立場を離れて地域社会や文化振興のための活動にも取り組ませていただいています。
西日本豪雨でのボランティアに参加したり、コロナで影響を受けている岡山のシアターを支援するBeyond 18(ビヨンド イチハチ)というプロジェクトを行ったり。
中でも印象に残るのは「カモンベイビー オカヤマ!!」という西日本豪雨で被災された方々を勇気づけ、早期復興を願う動画企画です。
DA PUMPの「U.S.A.」という楽曲をアレンジしたこの動画には、岡山県民約200名と伊原木知事にも出演していただき、再生回数は約30万回を超えるほどに注目されました。
黒住教という看板を背負いながらも、幅広い分野に精を出しています。
——宗教者としての活動以外にも、地域で様々な活動をされているのですね。
私は小さい頃から落ち着きがない性分というか、好奇心の塊のようなものなんです。
大学や就職で岡山を離れていた時期がありましたが、2016年に岡山県に戻ってきてから地元の良さを再発見し、より活発に活動するようになりましたね。
やはり、宗教教団という一般的に特殊な組織にいると、気を抜いていると浮世離れしてしまうような感覚もあって。外の社会と関わり続けたいという好奇心と、地域がより良くなるために何かしたいという課題意識が原動力となっています。
——黒住さんは一人息子ということで、後継者となる立場ですよね。宗教者として以外の活動を行うことに、ご家族の反対はありませんでしたか?
黒住教は誕生してから200年余り、ずっと直系長男が継いできました。他の一族経営の組織などと見比べても、これはとてもスペシャルなことだと思っています。歴史的な流れからして、両親も私に継いでもらうつもりでいたと思いますね。
しかし、両親は保守的ではありませんでした。
黒住教の神事や行事等への参加を強制されることも非常に少なく、むしろ課外活動などに積極的に取り組ませてくれました。
中高は神戸の自由な校風の学校に通ったのですが、最初にそこを勧めてくれたのも両親で。大学も、よく驚かれるのですがキリスト教系の大学に進学しました。家庭では礼儀などはしっかりと躾けられましたが、それ以外についてはとても自由にやらせてくれました。
(日拝:黒住教の儀式の一つ。日の出の太陽を呑み込む思いで、日の光に向かってお祈りをすること。)
「より良く生きる」を増やす
——黒住教の教えについて教えてください。
様々な教えがあるのですが、一言でいうと、「感謝」を説いています。説明するときによく用いる教えとして、「難あり有り難し」という言葉があります。それは、困難でさえも有り難いと受け止められる心を養いましょうというものです。何事へも徹底感謝の気持ちで、前向きに暮らす人が増えてほしいですね。
そもそも黒住教はさることながら、宗教は何のためにあるのか。
私は、「(今の時代においては)世の中が良くなるために存在している」に尽きると思います。
世の中が良くなるとはどういう状態なのか、その価値観は十人十色です。私の立場では、誰もが主観的な幸せや、いわゆるウェルビーイングを感じられる社会にしたいですね。
それは、自殺者や鬱で苦しむ人が減った社会です。病み、悩み、苦しむ人に寄り添うのが宗教者の役目だとよく言われますが、それは当たり前のこととして、目指すべきはそういった方がそもそも少ない世の中だと考えます。
決して悲観的に言うわけではないですが、人は生きている限り、常に苦しいことと隣り合わせではないかなと思います。どんな状態になってしまったとしても、わずかでも主観的な幸福感に気付ける人が多い世の中を作ることが、私としての使命だと感じています。
そのような世の中の実現に寄与することが黒住教やその教義の存在意義だと定義すると、極論、黒住教という教団の名前や、教祖である黒住宗忠の名前も知られる必要はないのかもしれません。
——主観的幸福度を感じる人が多い世の中。それが黒住さんの描く理想の世の中なのですね。
黒住教の教えのエッセンスに含まれている、人々が「良く生きる」ための叡智的な知恵、哲学が多くの人に伝わる状況を作りたいと思っています。信者数を増やすことではない、「より良く生きる」人を増やすこと。それが私たちの新しいKPI(目標)だと思っています。けど、新しく突飛な思想を持ち込んでいるつもりは毛頭なく、あくまでも初代の時代の頃に原点回帰しているというイメージで考えています。
また、黒住教では、「まること」の精神をもって生きることに努めています。「まること」とは、丸く、穏やかな雰囲気があって、循環している状態のことです。「まること」という言葉の中には「誠(まこと)」が含まれることも大事な点です。
黒住教は、分断や格差がなく、物事が循環していて調和が取れた「まること」の世界を目指しています。とはいえ、「まること」は概念的な表現であって、私の説明も非常にキーワード的です。これまで教団の中でしか使われてこなかった言葉をこうして意図的に外に出し、各個人が再定義していってくれてもいいかもしれませんね。
——「より良く生きる」人を増やすための活動は、宗教者という立場以外でも行っていますか?
はい、人をお繋ぎすることがその一例かもしれません。
自分にはできないことでも、誰かと誰かを繋いだらできるかもしれないですよね。そこからシナジーが生まれて、もっと面白い取り組みが増えていくのではないか。
もちろん、自分自身がNPOや会社を起こして事業主体になれば、もっとできることがあるかもしれません。
しかし、私はどこまで行っても黒住宗芳という個人か、黒住教の立場です。
自分でできることは限られていますが、誰かがそれに着手できるように周辺環境を整えることはできます。人任せにしている訳ではありませんが、「この人とこの人が繋がったら何か起こりそうだな」と感じたら、それらの活動やお仕事にレバレッジがかかるようにお手伝いする。その一つとして、相乗効果が起こりそうな人同士を意識的にお繋ぎしています。
そして、もう一つ私が様々な分野で活動できている理由は、宗教者はどこの誰よりもフラットであると思うからです。
非営利で活動しているNPOや教育機関、福祉団体など、どんな団体も専門の分野や業界がありますよね。一方で、宗教教団は社会的にどの分野に属すのかと考えた時に、私は、究極どこにも属さないと思っています。教育でも地方創生でも良い。「よく生きる」という観点で人の役に立てたり、自分の心が動くかどうかを軸に、どんな分野の活動にもシームレスに携わることができるのです。
言い換えれば、私たちは利害関係を必要以上に気にせず、忖度のないフラットな立場にいます。フラットでいなくてはいけないとも感じています。
そんな宗教者ならではの属性を生かして、多様な活動に参画させていただけています。
「宗教的」な日本人
——日本人はよく、無宗教だと言います。これについてはどうお考えですか?
多くの人々は確かに特定の宗教を信じていないかもしれません。
しかし、宗教的なものや宗教性を帯びた感性はむしろ増えているのではないでしょうか。
例えば、サーフィンや登山をする人の中には、敢えて困難なチャレンジを試みる人が多くいますよね。
自然に挑むとき、時に死と向かい合わせになるわけで、自然に対しての恐れや感謝といった気持ちを抱かずにはいられないと聞いたことがあります。そのような姿勢の人ほど、ゴミをポイ捨てしなかったり、礼儀を重んじていたりする気がします。これは私からすると、十分、宗教的です。
私は、日本人にはこういった宗教的な考えが根底にあるし、今後ますます再確認されていくと思っています。
ジブリの世界観を思い浮かべてみてください。宮崎監督は数々の作品で、日本特有の八百万(やおよろず)の神の世界観を描いていると私は感じています。
キャラクターが山や川などといった自然と通じる描写は、何事にも神様のような物は存在するという精神性を表しています。
このように考えると、日本人は特定の信仰こそ自覚としてはないかもしれませんが、神道的な価値観は持っていると思います。また、そういった発想に対する理解が浸透しているのではないでしょうか。
日本人は、自分が思っているよりも宗教的なのかもしれません。
——身近に宗教的な考えはあるけれど、それを宗教として認識していないだけかもしれないですね。では、何かを信じるとは、どういう状態だとお考えですか?
心を預けられる対象があるということかもしれません。宗教とまではいかなくても、何か信じる対象があると、人って強いんですよね。病まないんですよ。
大きな成功をした時でも、天狗にならない。信じているものに感謝し、謙虚でいられます。反対に、取り返しのつかないような失敗があったとしても、希望を捨てずにいられるはずです。
物事は事実と感情で成り立っていて、その間には必ず因果関係が存在しています。何かを信じていると、その因果関係が明確になります。
例えば、成功した時。
努力が報われたと思う人もいれば、周りの人や神様への感謝が先に来る人もいます。
人は、自分の感情がどこから来るのか意外と知らないんですよ。自分の中で何か、信じる対象や拠り所を明確に認識していれば、どんな感情がどこから発生するのかが明らかになります。心を祓い純粋な状態を大切にしていれば、そういった気づきや学びが、自己理解につながります。
現代において宗教は、人々がより良く生きていくための手段の選択肢の一つです。
その点において、教育と宗教は共通しています。
宗教と教育が交差するところ
——中高時代の印象的な経験はありますか?
私が通った中高は、生徒の自主性や自治をすごく重んじる校風でした。
「知育、体育、徳育」という考え方がありますが、その学校は、「徳育、体育、知育」の順番に掲げていて。
徳育を養うためには生徒の自治を慮らなくてはいけないという考えだったので、それが自分にとても合っていました。
数々の思い出の中でも、高校3年生の時の生徒会長としての経験は今でも忘れられません。
私は中高の5年間、生徒自治会という、いわゆる生徒会に所属していました。そして高校3年生の年に、生徒会長を務めることになりました。
他のメンバーよりも長く自治会での経験を踏んでいるので、自分の能力を過信してしまったんですね。
皆の意見もあまり聞かずに自分が正しいと信じ切って、傲慢に振る舞ってしまって。
その結果、自分の周りから仲間が離れていってしまいました。一人ぼっちになってしまって、とても辛かったです。
その時に気が付いたんです、一人では何もできないと。皆の協力があっての自治会だったんですね。
それから皆に謝りに行ってチームに戻ってきてもらいました。
メンバーの意見をしっかりと聞いて、自分も少し前例を知っている者の立場から意見を言う。そうやってチームワークを発揮して、無事に生徒会長としての役割を務めることができました。
ここで学んだのが、「参与」の大切さです。
参加でも帰属でもなく、お互いが持っているものを与え合うことです。一人一人が参与できるチームが理想ですね。ここでの学びは今でも大切にしています。
——その頃の経験が今の活動精神に通じているのですね。
私はこの失敗談は美談だとは思っていなくて(笑)
失敗した経験は、失敗として受け止めています。
でも、失敗を結果的に良い方向に持っていけるかは自分の努力次第ですよね。
私はAO入試で大学に入学したのですが、この失敗があったからこその学びを生かして、合格できたかもしれません。
後に学ぶことになるのですが、リーダーシップというものはリーダーのみならず、各位がそれぞれなりに発揮するべきものです。
現在幅広いプロジェクトに携わっている時も、この時に身に付けたチームワークの経験や「参与」の考えが生かされているかもしれません。
何事も将来どう転じるか分からないですが、マイナスな出来事を生かせるかは自分次第です。
「無学慢心」と地方教育
——これまでの経験を踏まえて、現行の教育についてどうお考えですか?
教育には、教えを与える側と、受ける側がいます。受ける側のする「学ぶ」という行為は、実は能動的なものなんです。
どれだけ恵まれた環境に置かれても、ただ学校に行くだけではなかなか学べません。
学問においても課外活動においても、能動的になって初めて、先生の言葉が耳に入ってきて、学べるのです。
「教育」という枠組みの下には、「学び」があります。
さらにその下には「能動的な姿勢」があり、それを身に付けるための「アウトプット」があるように考えています。
いつだって、答えは自分の中にしかありません。世の中にあふれるヒントをいかに使えるようになるかが、これからの教育の役割の大きな一つだと思います。
私は、大学時代に経営学を学んでいましたが、授業は知識を実践に生かすか、というアウトプットが中心でした。課題ではよくプレゼンテーションやグループワークが出されたので、能動的な姿勢が身につき、多くを学べました。
いかに子供たちの個性を引き出して学ばせるか。それが教育の醍醐味です。
本当に学びを豊かにするには、アウトプットを増やすことが必要不可欠だと考えます。
——能動的な学びやアウトプットを求める声は多く聞こえます。それらに取り組んでいる教育機関も増えていますが、まだ地方には浸透していない印象を受けます。地方の教育についてはどうお考えですか?
最小単位は、最大単位と繋がっていると思うんです。生きる上での哲学や拘りで世界中とつながることができる時代です。つまり、地方や都会と言った単位の溝を感じずに、俯瞰的に教育を捉えることが理想です。
とはいえ、地方と都市部の教育に差があることは確かです。
既存の教育モデルには限界がありますが、諦めの姿勢になるのは違いますよね。
「地方には教育資源や機会が十分にないから、できないのは仕方がない」という思考から、「今置かれている環境でも、やりたいことを実現するにはどうしたら良いか」という発想に変えていかなくてはいけません。
インターネットが発達している時代です。教育に関する情報収集はどこにいてもできますし、パソコンやスマートフォンを使って質の高い学びにも簡単にアクセスできます。ですから、地方に資源を集めることだけが答えではないかもしれません。
必要なのは、子どもや保護者が教育に対して主体的になるように働きかけることです。
テクノロジーの恩恵をうまくいただきつつ、良いチューターをいかに育て増やすかが、今後の地方教育の論点の一つだと私は思います。
チューターとは学びの伴走をしてくれるメンターのような存在のことで、学びに対する強い意欲を持っています。
それは先輩でも保護者でも良い。チューターが近くに居て学びをガイドしてくれたら、生徒はどんどん主体的になっていきます。
そうやって生徒の学習意欲を引き出すことが、地方の限られた教育資源を活用する発想を生むのではないでしょうか。
——いかに生徒と保護者のモチベーションを引き出すかが、地方教育の鍵なのですね。
「無学慢心」という言葉があります。
無学は学ばないこと、慢心は傲慢になること。
「教育を受ける機会が少ないから勉強が出来ない」「勉強が出来ないから何も知らない」。それらは一見謙虚なように見えて、自分が無学であることにおごり高ぶっている状態です。
分からないことや出来ないことがあるのは当然です。それについて教えてくださいと誰かに聞きに行ける能動性があるかどうか。
それこそが地方や都市部といった垣根を越えて個人の学びを、そして人生を、より豊かにする材料かもしれません。
そう考えると、宗教も教育も、その本質は同じなのかもしれません。
インタビューを終えて
岡山や中四国を中心に全国に普及している神道黒住教の、次期教主である黒住宗芳さん。
初めての宗教者との取材ということで、どういう方向にお話が進んでいくのか予想ができませんでした。
ただ、そんな心配は、杞憂に終わりました。
黒住さんの内側から出てくるエネルギーに惹きつけられて、次々と浮かんでくる問いをぶつけてはお答えいただく。爽快なラリーをしているような気分で、あっという間に時間が過ぎました。
そして、取材の中で幾度も出てきた、「より良く生きる」のお言葉。
自分の中の「無学慢心」を取り払うことが、その状態に近づく第一歩なのかもしれないと気づかされました。
「教育」って本当に幅広い。 僕たちの観点で、「この人は教育者だな〜」って思った瀬戸内エリアの人を取材してお届けします👇
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