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石ノ森章太郎『仮面ライダーBlack』のグロテスクさと中東問題の相似性についての雑感

ヘッダー画像:石ノ森章太郎『仮面ライダーBlack』3巻。p.307,小学館文庫,1998

I’m starting with the man in the mirror
I’m asking him to change his ways
And no message could have been any clearer

"Man in the mirror" Glen Ballard, Siedah Garrett

 気に入ったのは確かだがその動機が不明な作品という物はままある。それが客観的に見てそこまで出来が良くない事もこれ又ままある事で、私にとって石ノ森章太郎の『仮面ライダーBlack』がそういう作品なのである。
 率直に言わせてもらうと、この作品は彼の諸作品─格好の比較対照に同作者の『仮面ライダー』がある─と比べるとあまり出来が良くない。
 後者は60年代後半の世相に仮面ライダーという清廉な自由主義者(リバタリアン)を配置してその活躍と限界を仄めかすポリティカル・スリラー(政治的活劇)として纏まりがあるのに対して、前者はかなーりとっ散らかっている。表現にしてもやはり、舞台のリアリズムを風刺するようなG.ドレ風の写実と、所詮は絵空事であるとのカトゥーン風のタッチの両立が見られる『仮面ライダー』の方に圧倒的な冴えが見られる。
 然し、というかそれ故に『仮面ライダーBlack』はちょっと特別な作品なのである。確かにこの作品には先行する作品に比べて彫琢された社会的なインパクトは無いだろうが、その分余人の及ばぬグロテスクな世界がそこにあった。そして、これを読んでる時分(21歳頃)には最早「悪こそ世の真実」みたいな擦れっからした中二病マインドは幾らか霧散していた筈だが、それでもそのグロテスクさに何かしらラディカルな物を感じたのは確かだった。結局、そのラディカルさが何なのかは分からぬままに悪夢のようなこの作品を読んでいたのだが、先日、ふと、その答えの手掛かりになるような発想が浮かんだ。即ち、信彦と光太郎の関係性が中東の二大国のイランとイスラエルのそれに近いのではないかと感じたのだ。
 勿論、中東の勢力図の解説がイランとイスラエルで片付く訳ではない、サウジアラビアと言う両者に比肩する強力なプレイヤーを無視しているのは明瞭だし、それにシリア、イラク、イエメンやレバノンのような国家は無視するにはあまりにも有力で好戦的だ。然し、それでもイランとイスラエルはグローバル・ファイヤーパワー*1という機関によれば中東でとりわけ精強な国家であるのは間違い無い(ここではEUに属しているトルコや南アジアのパキスタンのような国家は除いている)。
 そして、両国家はその地域大国という立場以外にも色々似ている所がある。箇条書きマジックになるがそれを幾つか挙げてみよう。
・前述の通り両者とも中東の軍事大国である。
・両者とも比較的歴史が浅いが、土地の歴史は長い
・両者とも宗教的な共和国である(尤もイスラエルとイランでは政教分離の具合はかなり違うが)
・両者とも超大国と関係が深い
 ざっとこんな物であろう。然し、実際に於いてはここまで類似点の多い両者であるが、その関係は水と油と言っても差し支え無い。何故なら、両者には以下のような決定的な違いがあるからだ。
・国教(イスラエルはユダヤ教、イランはイスラム教のシーア派)
・関係が深い大国(イスラエルはアメリカ、イランはロシア─尤もイスラエルとロシアの関係はそう悪くはなかった)
 差し詰め、イスラエルとイランは相似だがその方向の著しく違う国家と言えそうである。そしてその違いは戦略に於いても表れている。即ち、イスラエルが欧米の支援を受けてパレスチナに侵攻し、中東諸国を威嚇する前線として機能する反面、イランは各国の武装組織と連携を取り、それらを「抵抗の枢軸」*2にする事で銃後から隠然たる影響力を行使している。
 この戦略は見事に対称的である。イスラエルとイラン、互いに似た経緯を持つ国家がそれぞれ別々の行動様式を持っているという関係は鏡像の様でもあるし、ドッペルゲンガーの様でもある。
そこでドッペルゲンガーと言う単語が引っ掛かった。なので私は『仮面ライダーBlack』を連想した(のだろう)。折しも、この作品のドラゴンに乗った「魔王」の語る支配の形式─「ワシはたしかにオマエだが、オマエを殺してもワシは死なんぞ。(中略)ワシの力はこの新世界のすみずみにまでおよんでおる!!(中略)だから、もし万が一ワシが死ねば……この世界も共に死ぬことになるだろう。」─に「抵抗の枢軸」と深い繋がりを持つイラン革命防衛隊、延いてはその首魁たるハメネイ─更に言えば、「西側諸国」への抵抗を見せる諸々の実相の姿を朧気に感じていたのであるから、そこまで抵抗のある発想ではなかった。そして、その発想の対となる「光太郎はイスラエルを幾らか彷彿とする」という推測も、やはり彼の苛烈な攻撃方法やヒーローと屈託無く呼ぶには暗すぎる生き方、終盤の追い詰められ方を見ればさほど抵抗無く飲み込めた。左右だけが逆の合同の存在、光太郎(イスラエル)と信彦(イラン)こそドッペルゲンガーと呼ぶに相応しいかもしれない。
 『仮面ライダーBlack』は都市伝説やオカルトな噂を聞き付けて、そこで遺伝子改造を施されたニュータント(サイボーグ)と闘っていくという物語だ。そこでミュータントは、その伝説と重なる行動を起こすのであるが、要するに信彦と光太郎の関係性が都市伝説の一つ「ドッペルゲンガー」のパロディであるなら、彼らの内どちらかは見えた時に死なねばならないという事である。何故なら、それがドッペルゲンガーと言う噂の形態だからだ。事実、物語は終盤に於いて信彦と光太郎の殺し合いに発展していった。瓜二つな物が互いを実態の無く、未来を生きるに値しない「鏡像」と見倣して死を齎しあう。
 現実に於いても、イスラエルとイランの関係は決裂に近い。両者とも互いに互いの破滅を望む事に関して、恐らく抵抗は無いのであろう。然し、流石にフィクションとは明確な違いがある。それは、両者とも直接はぶつかっていない事だ。それには様々な事由があるだろうが、兎も角差し当たっての現実はフィクションよりマシなのだと私は見ている。『仮面ライダーBlack』の最後の舞台となる未来のオーストラリアや東京を地獄であると見ない読者は恐らくおるまい、だからイスラエルとイランのドッペルゲンガー同士の戦争がそれを齎すのならやはりそれは無いに超した事は無い。
 然し、イスラエルとイランの関係があいも変わらず光太郎と信彦(と我々が想定している)なら、そのアルマゲドンは約束されていると見るのが妥当かもしれない。ならば、私は、それを回避する為にも一回そのゲーム自体を御破算にしたい。詰まり、両者が敵と見倣している鏡像を映す鏡を叩き割ってそれが透明なガラスであったと喝破し、鏡像と思っていた物が独立した実体であり、互いにパントマイムをして、ガラスを頑強な鏡にしていた者同士なのだと認識させたいと感じている。
 そしてこれは、現実に於いては資源の呪いに囚われて、停滞した階級社会と化した中で、紛争こそが(一部─この一部にはイスラエルのパレスチナ地域への入植者も入ってるのだろう─にとっての)利益と化した中東という構図の否定(産業の振興や政治の発展)になるのかもしれない。
 私はそのような埒も無い妄想により『仮面ライダーBlack』がアクチュアルに感じられた、基いグロテスクな想像が具体的な形を取り始めた。必ずしも、作品が現実を反映する必要は無いかも知れないが、ある種の構造が巧みに描かれているならば、如何に非線形的でテーマが不在に見えてもやはり何かしら響くものはある。そしてその世界観はヒーローである筈の主人公をある種の不完全な人間として描写しても許される。恐らくそれが人間の一度は達する限界でもあるからだろう。
現実はどうなるのかは分からないが、イスラエルとパレスチナやイランの間にある「最早戦うしかない」という諦念と血みどろの砂漠の図が作中の賢者の石程には磐石ではない事を願いたい。

余談:
 『仮面ライダーBlack』に関しては、昨年の10月頃、ブラジル人の漫画家と興味深いやり取りをした。彼は敬虔なカソリックでこの漫画を「どうしようもない世界で足掻くセイント」のように見ていた節がある。
 私はそこまでヒロイックな見方が出来なかった─オウムと重ねていると答えた─のだが、そういう見方を許容するという驚きがある。
("Kamen Rider Black - O mangá"
https://www.blogsushipop.com/post/kamen-rider-black-manga)
 因みにこの記事は全部スマホで打った。パソコンの方が確かに楽だが気が進まなかった。

*1:BUSINESS INSIDER『世界の軍事力ランキング トップ25 [2023年版]』

*2:『アメリカも警戒する「抵抗の枢軸」とは?中東揺るがす存在?』


 
 
 


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