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【千文字評】 クルエラ - 元キャラが空っぽだからそ風通しのいいヴィラン誕生譚に

『101匹わんちゃん』のヴィラン、クルエラ・ド・ヴィル。
その前日譚の映画化と聞いて事前に感じていた懸念は「クルエラに描くべき過去なんてあるか?」ということだった。だって『101匹わんちゃん』のクルエラはダルメシアンの子犬101匹も誘拐する典型的なヴィランではあるが、動機はただ「ダルメシアンの毛皮が欲しい」というだけしかない。いたって純粋な動機で、そこに彼女の過去など全く関係がない。

しかし実際の完成品を見てみると、その「語るべき背景のなさ」が『クルエラ』という映画を格別に風通しのいいものにしていた。少なくとも「ディズニークラシックの現代的再解釈」などという欺瞞に満ちた作品群の中では断トツで出来がいい。

言わばクルエラは「空っぽの容れ物」だ。外見と彼女を象徴するいくつかの要素(部下2人、車…)さえ整えれば、残りは自由が効く。彼女の過去は、舞台を70年代ロンドンのアパレル業界に、母親を亡くして孤児になった少女が、業界に君臨する女帝へ挑む『プラダを着た悪魔』風な物語として再構築された。

監督のクレイグ・ギレスピーは前作『アイ,トーニャ』同様、当時のヒットチューンと共に、テンポ重視でスコセッシ調な演出でそんなヴィラン誕生譚を描いていく。物語を省略でなく、圧縮して語るアップ・テンポだがボリュームはある作品に仕上げている。

だが、その演出以上に重要なのは「たとえそれが悪だったとしても、ありのままの自分を誇れ」というメッセージだ。これは『アイ,トーニャ』でも描かれたクレイグ・ギレスピーが繰り返し語るテーマだ。そこには「ヴィランだけど、実はいい人」などという都合のいい「現代的な解釈」は必要ない。

クルエラ自体が空っぽで実質的にオリジナル企画だったからこそ、ディズニーからの要請が最小限ですみ、例外的にディズニーらしからぬ現代的なテーマを語ることができた。逆説的に考えると「過去の名作の語り直し」という時点で既にそれは封建的にならざるを得ない。「過去の名作」という肩書きは革新性から最も遠い。

だがそれでも、ディズニー的な要請を感じはする。
後半で結局、血筋の話へと収束していくのは少し残念だ。「良い子でみんなに気に入られる自分」を殺すため、父殺しならぬ母殺しへと挑むという意図はわかる。

だが血筋に関係なく、天性のヴィランだったっていいじゃないか。
ヴィランがヴィランであることを誇る、そんな映画が見たいのだ。
(↑JUST 1000文字)

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