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生きる意味

先日、「生きる目的」という題名の記事を書いた。毎日、朝起きると生きる目的、生きる意味を考えてしまう自分がいる。

昨日と今日のニュースの中心は、頂き女子りりちゃんが、懲役9年の実刑判決を受けたというものだった。その中でりりちゃんは、「ホストを1位にすることが生きる意味」だと語ったという。

「生きる目的」も「生きる意味」とほぼ同義だと私は思っているが、この記事の中では他に「存在意義」という言葉も出てくる。

記事をじっくり読みこんだわけではないが、親からDVを受け、容姿にコンプレックスがあって自分を認められなかったとすれば、他人から賞賛、評価してもらうことに飢えていて、自己肯定感を満たすことができないときに、誰かに必要とされると舞い上がってしまう気持ちはわかる。

そして、その中に自分の存在価値=自分の生きる意味を見出すせるならば、他のことはまったく目に入らなくなってしまい、犯罪も犯罪と認識できなくなるのは理解できる。

犯罪に手を染めたことは横に置いておき、生きる意味を実感するということに焦点を当てれば、普段、生きる意味を考える人はあまりいないだろう。生きる意味などということを考える人は、よほど窮地に追い詰められた人か、エゴイストなど、考える過ぎる人ではないか。

常々、なぜ昔の小説家に自殺者が多いのかと疑問に思っていた。小説家に限らず、芸術文芸関係者は自ら命を絶つ人が少なくない。何も考えずに多忙な生活の中でわずかな幸せを感じて生きて満足する人と、どんなに賞賛や名誉や地位を得ても満足せず、自ら命を絶つ人が多いのは、きっと考えすぎるからなのだろう。もちろん、一般人でも自殺する人はいて、たまたま著名人が報道されるからそのような印象を持つだけかもしれないが、著名人に限ってなぜ自殺するのというような人もいる。財産も名誉も地位もあるのに、なぜこの世にいることを嫌うのだろうか。

人は人がいないと生きられないとアドラーは言ったという。人の悩みはすべて人間関係から来ているということだ。

確かにそうだ。どんなシチュエーションでも、どんな場面でも、他人からの評価、他人との付き合いで人はその意義や価値を判断し、判断される。

相手を最も怒らせるのは無視することだという言葉を聞いたことがあるが、人との関係を断絶させることが一番の相手に対する反対の態度だという。無視される=あなたは誰にも存在を認められていないと思わせることが、いかにその人を孤立させ、窮地に追い詰めるかということだ。

逆を言えば、あなたのことはいつも気にしていますよ、あなたは大切な存在ですよというメッセージを常に出していれば、その人は自分の存在価値を見出すことができる。これこぞが今回のりりちゃんの立場だったのだろう。その唯一の人が、たまたまホストだったということだ。

人は権利は平等だけれども、境遇は決して平等ではない。何不自由ない裕福な家庭に生まれる人もいれば、生まれた時から片親だったり貧乏だったりする人もいる。そうした境遇があっても犯罪は許されないことではあるが、今の日本はいかにもそうした人を助けようとしない、弱者とは言いたくないが境遇の悪い人を助けようとはしない社会になってしまった、共産党的に言えば「弱者切り捨て」の社会になってしまったのは、一体誰のせいなのだろうか。

言わずもがなである。

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