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掌篇小説|ぬるいお茶

黴の香やテーブルに別れの予感

        晴田そわか


落ち合うのは、いつもデパートの裏にある中国茶のカフェ。今日は中庭のテラス席。あのひとが勤めるデザイン事務所に近いし、彼はコーヒーが苦手だから。待ち合わせたところで、どこかへ出かけることはなくて、わたしが仕事終わりに呼び出し、彼は休憩をかねて、ほんの一時ひとときそこに存在するだけ。

彼は白いシャツ、グレーのデニム。髪が少し伸びかけて、うるさそうに眼にかかっている。わたしの正面に坐り、細い脚を組んで、無言で写真集のページを次々とめくりつづける。

約束よりも彼の来るのが遅れ、わたしの注文した熱い普洱茶は、ずいぶんぬるくなっていた。

夏至を過ぎたとはいえ、午後の6時はまだ昼間みたいだ。ここに西陽は射さないけれど、隣のビルの窓に反射して眩しい。さっきまで降っていた雨のおかげで涼しげな風が通り、細長い庭の苔は緑が鮮やかにふっくらしている。

「もうじき誕生日だから、プレゼントにあげるよ。ねえ、見て。あそこ、あの石の辺りの苔、ふかふかで猫みたい」

いつからか、心にまといつく鬱屈うっくつを、熱いお茶で払いたかった。

「猫?」と、彼は俯いたままで答え、さらに2、3枚ほどページを繰ってから、

「猫、飼ってたんだっけ?」と、眼をあげた。

「うん、実家で」

このひとのそばにいると、どの映画だったのか、J・P・ベルモンドが「きみはいつも上の空で優雅だ」と、友人に指摘されるシーンを思い出す。こんなに近い距離なのに、わたしは遠くにいるひとのように彼を眺める。

彼は本を閉じ、小さく欠伸をすると、アイスのライチ紅茶をストローで飲み干した。

「ありがとう」と彼は生真面目さを含んだ声でいった。「これ、欲しかったんだよね。探しても、古いからなかなか見つからなくてさあ」

「思いついてネットで検索したら、ちょうど近所の古本屋さんにあった」

彼の好きなアーティストの作品集。まだキャリアを積む以前、滞在した幾つもの町を撮影した写真がまとめてある。持っていたのに、手放したのを悔やんでいたから、取り戻してあげたくて、しょっちゅう検索しては探していたのだ。

彼に、何でもしてあげたいのか。逢うための口実が欲しいのか。それらに違いはあるのか。

「もしかして、商店街の、新しく出来たカフェみたいなとこ?」

「そっちじゃなくて、線路沿いの、老舗の方」

「ヘビメタ店主がいる方ね」と、彼は女の子の名前を口にする。その子は彼の旧知の友達だけれど、わたしは名前しか知らなくて。「『olive』が国会図書館並みに揃ってるって驚いてたけど、ほんと?」

彼は、わたしも彼女と親しくしていると勘違いしているのだろう。共通の知り合いは少なくないから、仕方のないことではあるし、分かってはいる。些細ささい齟齬そごを数えたてて責めても、お互い不機嫌になるだけだ。分かっているつもりでも、彼はわたしに興味がないのだと、空虚な気持になる。かすかな不安と不信。

彼は、再び写真集を手にして、中ほどのページを開いて膝に乗せると、

「この、アムステルダムのシリーズがいいんだよね」

あの夕刻、まだ顔見知りていどだった彼を、職場に訪ねた。わたしたちは同じ美容室に通っていて、オーナーから、デザイン事務所と一緒に企画したイベントで使う資料を渡すよう、頼まれたから。正確には、わたしが届けたがったのだ。彼に近づきたくて。彼はちょっと眼を惹く人物だった。

 あの時、事務所の前の歩道で、別れ際にわたしを見た、物言いたげな彼の眼差し。寄る辺ない子供みたいな表情、赤血球の欠乏したような頼りなく白い顔。わたしは帰れなくなった。彼を独りにしておけなかった。

それ以降、逢いたくなって、連絡をするのは、いつもわたしから。

別れるも別れないも、わたしが連絡をやめてしまえば、それでおしまい。

「じゃあ、そろそろ戻ろうかな」

本を閉じ、彼が立ち上がる。また痩せたんじゃないかと思う。顔色は悪くないけど。

「仕事、無理しないようにね。あたしは、まだ、もう少しここにいる」

「うん、じゃあ気をつけて。写真集、ありがとう」

——あなたは、気がつくのかしら。わたしが、あなたから離れてしまったら。あなたにずっと必要とされるよう、関係を築きたかったけど。不安定な気持ちを落ち着かせたい時だけ、そばにいて欲しい任意の誰かではなく。いつか、わたしのことを思い出しても、懐かしいとは、ほとんど感じないんでしょう。

彼の背中を眼で追いながら、すっかり冷めたお茶のカップを脣につけ、残り香を手繰り寄せるよう深く息を吸い込む。

この黴くささは、ビンテージの樟香しょうこう普洱茶でも、苔むした庭の香りでも、ふたりの関係の終わりの象徴でもなく、わたしの夢がついえて、悲しく腐敗をはじめたしるし。

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              〈 了 〉

そわかさんの俳句は、いつも端正ですが、この作品も、静謐せいひつでありながら、とてもドラマチック。

『黴』をモチーフにされるとは。木の子や羊歯好きだから、黴だって気になります。

『素敵だ』と感じた気持ちを、勢いだけで書きました。下手な説明文と独白ばっかりで、小説と呼べないかもですが、投稿してしまいました。

俳句と同じく、心情より写生を目指したいのに、色々の物、人の観察が甘くて、道が遠いですー。

そわかさん、ありがとうございました🐶

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