見出し画像

PCR発明者のクセがすごかった__『マリス博士の奇想天外な人生』

「マリス博士の奇想天外な人生(ハヤカワ ノンフィクション文庫)」を読んだ。

PCR法を生み出しノーベル賞を取った人の自伝的な本。


PCR発明者、クセがすごい。


有名な話だが、PCRの原案はドライブデート中に思いついたらしい。
しかも受賞連絡を受けた日はサーフィンに行ってるし。
その時の友人との会話も面白い。

「オレ、ノーベル賞とってしまったんだ」
彼は言った。「知ってるよ。来る途中にラジオで言ってたから。それより早くサーフィンに行こうぜ」

そんな軽いノリの会話で済む話なのか(笑)?

他にも面白いエピソードがある。

ノーベル賞受賞式のためにスウェーデンに滞在していた時にホテルの一室から街にいる人に向かってレーザーポインターを照射して遊んでいたら狙撃と間違われて警察に通報されたらしい。しかも警察に質問された時の返しが「こちらのお国では、窓から赤い光を出すことを禁ずる法律でもおありですかな」である。

何やってるんだこの人は、、、


女性関係にも色々あったようで。

ある日の午後、見知らぬ男がドアを蹴飛ばして怒鳴りこんできた。あの子はオレの女だ。このおとしまえはどうつけるつもりだ、と。研究室内で身の危険を感じたのは、私の人生の中で後にも先にもこの時だけだった。


他にも読めば読むほどクセのすごいエピソードが出てくる。

光るアライグマを見る超常現象を体験したり、星座占いに本気になったり、大学院生時代に初めて出した他分野の論文でネイチャーに載ったり、LSDでトリップ体験したり、、、

邦題の通り、奇想天外な人生である。

結構マユツバな話もある気がするけど、ここまで科学に精通した人間が非科学的な嘘をつくとも考えにくいし。真相はいかに、といった感じ。



その片鱗は学生時代からも窺える。

幼少期から化学物質をガレージで合成していたそうで、ニトロソベンゼンとか臭化フェナルを生成していたそうな。しかもできた化合物を販売していたこともあったとか。

面白いエピソードもいっぱいあるが、それよりも注目したいのは、その科学的素養だと思う。

これをやってみたら面白いんじゃないか?
こうしたら便利なものができるんじゃないか?
自分で実験して何でも試してみる姿勢がよく伝わってくる。

自分の体(皮膚表面)の電気抵抗値を測定して、感情がどう変わったときにどういう変化をするか調べ、その電圧の変化でスイッチが入るランプを作ってテレパシー実験などと言って近所の人に見せていたらしい。

考えついてもそんなことやるか(笑)?
そのためにラジコンからFM電波の受信装置を取り出して皮膚の抵抗変化を入力して信号を作り出す装置まで作ったとか。

発想が奇抜で面白い上に、それを実行できる行動力と頭がある。

どういうことができたらすごいのか、面白いのか、そういったことを見抜けるセンスみたいなものを感じる。しかもそれは科学的で合理的な思考に基づいているように思う。


PCRにしたって、最初に思いついた時の興奮が書かれていたが、その発想を当時の友人や同僚に話しても薄いリアクションしかもらえなかったらしい。

すばらしい!無敵だ!ハレルヤ!これで決まりだ!ジェニファー起きてくれ。DNAをめぐる二つの難問を解決できたのだ。十分な量と正確なサイズ。しかもたった一つの方法でだ。
しかし、むしろショックを受けたのは、友人にも同僚の中にも、私の話を聞いてすごい言ってくれた人間が誰もいなかったということだ。

どれだけすごいことを思いついたとしてもそれを重要なことだと理解ができるのかどうか。そして自分の思いついたことが重要であると信じられなければ意味がないということ。

もし私が同じ状況だったなら、「あれ?やっぱこの発想はそうでもなかったのかな?」と自信をなくし頓挫させたかもしれない。

人の反応がどうとかではなく、科学的に新しくて面白くてすごいことなのかをちゃんと理解できるか、自分の考えを信じられるか、が大切なのだとわかる。



初めて出した論文がネイチャーに載ったという話もある。

これを最初見た時は、「自分は天才だった」的なエピソードなのかと思ったが全然違う。

論文は私自身の経験と想像力をもとに、宇宙全体の創成と終末を論じたものだった。
いわば直感による考察であり、あくまでも仮説の一つとして世に問われるべきものであった。なんといっても私は当時、まったくの駆け出しだったわけだし、天文学者としての経験などほとんどなかったのだから。私はカリフォルニア大学バークレー校の生化学専攻科の大学院二年生にすぎなかった。私は天文学の本を乱読していた。アップ系のクスリも少々やっており、大きな気分になって宇宙を論じたのだった。知識ある読者層をほこる《ネイチャー》編集部が私の私見などを掲載する必然性など何もあろうはずもなかった。
だが《ネイチャー》は私の論文を採択した。
その後、私も大人になった。老成した賢人たちが世界を守っているという幻想も、どこかへ忘れてきた。本物の賢人がいるのなら、私が初めて書いた宇宙の構造に関する思いつき論文が、世界最高の科学雑誌に掲載されることなど許されるわけもない。

この時の著者の考えが本当に専門家から見てもすごいことだったのか、それとも有名科学雑誌への掲載というのは案外いい加減なものだったのかはわからない。

ただ著者の言わんとすることも何となくわかる。
それをちょっと喰ったような感じで、大人を試した感じがあって面白い。

ちなみに当のPCRの論文の方はネイチャーでもサイエンスでも却下だったらしい。

《サイエンス》はこう言ってきた。
「貴殿の論文はわれわれの読者の要求水準に達しないので、別のもう少し審査基準の甘い雑誌に投稿されたし」と。この野郎、と私はうめいた。

ノーベル賞クラスの研究でもこの扱いを受けることがある。
なぜこんなことが起こるのか考えたが、やっぱり評価を下すのが人間だからなんだと思う。PCRの考えを同僚に言っても反応が薄かったのと同じように。

正確に、科学的に、評価するというのは難しい。
ちゃんと科学に立脚した評価の思考を持っているかどうか、ある種センスみたいな部分もあるんじゃなかろうか。どういう新規性があって、どこでどのように役立つような話なのか、正確に理解できて評するのは難しいことなのだと思う。



私がこの本を読んで著者に「科学者」を感じたのはもっと細かいところである。

本書の内容とは全然別の見方かもしれないが、面白い部分を引用する。

ブラッドは切れる男だった。私は、もし月が地球に向かって落下するとしたら、どれくらい時間がかかるかを計算できた。ブラッドはそういう私を評価してくれた。

さらっと書いてあったが、すごいことだと思う。
著者は天文学の専門家でもない生化学者である。
もし〇〇なら、ということを思いつけることと、本当にそれを計算して見せられるかどうかは別だと思う。ただ、こういう話が思考実験として存在することを知っていて、暗記した答えを「〇〇なんだよ〜」って自慢げに話すことは誰にでもできる。でも、実際にどういう物理法則に従ってどういう計算式が必要になりどういう値になるかを自分の手で計算できるかと言われれば、ほとんどの人ができないのではないだろうか。もしくはやってみようとも思わない。しかも、ここで面白いのは、それができることを評価してくれた人間がいて、そいつのことを「切れる男」だと評しているところ。

研究にしろ仕事にしろ、「でかいこと」をやってやると息を巻いてる人間は、格好だけの場合も多いと思う。口は達者で抽象的な論述に長けているだけで、世間一般からは優秀だと持て囃されるような人もいるだろう。そういう時に私が思うのは、「本当に細部を見ているか」ということである。話が大きくなればなるほど細部をないがしろにしてしまうのが人間だと思う。「こんだけスゲーことやってんだからそんな細かいことはいいじゃん」てな感じで。

その部分において著者は、私が思う「科学者」だなあと思った。

他にも、HIVウイルスの話でも似たようなものを感じた。
献血液中にレトロウイルスが潜んでいないかどうかPCRで検出する方法を開発するための経過報告書を書いていたときである。

私は冒頭の一文を「HIVはエイズの原因とされている」と書き出した。
私はスペシャリティ・ラボ社のウイルス学者に、HIVがエイズの原因である、という記述の根拠となる論文を引用しておきたいのだが、それはどこにあるのか、と聞いてみた。
「そんな論文の引用は必要ないよ」彼は言った。「それは常識だから」
「いや、そうは言っても根拠とした論文を提示しておきたいんだ」かくも重要な発見を報じた論文なら、なおさら引用しないのはおかしいと思えた。誰でも不思議に思うはずだ。
「どうしてもというなら、CDC週報を引用しておけばいいよ」と彼は言った。そして、米国疾病コントロールセンター(CDC)の週報であるMMWRのコピーを私にくれた。私はそれを読んでみた。それは科学論文ではなかった。そこには、単にあるウイルスが発見されたと報じられているだけで、どのように見つけられたのかは記載がなかった。その週報は、医師たちに向けて、特定の症状を示す患者がいれば報告し、このウイルスに対する抗体で検査するよう依頼していた。週報でも、情報のソースとなるもともとの科学論文は明示されていなかったが、私はもはや驚きはしなかった。週報は、医者向けの広報誌であり、医者たちは情報源を知る必要を感じない。医者にとってみれば、CDCがそう言うのであれば、HIVがエイズの原因だという証明が、どこかにきちんと存在するにちがいないと思っても無理はない。
科学的記述の適切な根拠となるべきものは、通常、信頼できる科学雑誌上に掲載された論文である。

ここでHIVがウイルスの原因であるかどうかの真偽は置いておくとして、注目したいのはみんなが常識だと言っていることに対しても、きちんと裏付けを取ろうとする姿勢である。当然と言えば当然かもしれないが、果たしてみんなが思う「当然」はどのレベルの話なのか。

ここでは最初の一文を書くためだけに、科学的根拠を求めているのである。
一般人はおろかウイルス学者ですら、それは常識だからなどと言って素通りしていたことを、である。

科学的であるということ、自分の発言に根拠を持つということ、その意志が伝わってくる。これこそが科学者として当然の姿勢であり、矜持ではないだろうか。

偉そうなことを述べているが、私自身は細部をないがしろにしてしまうことが多いし、「まあいいか」のレベルも低いので頭が上がらない。

科学者として常識だと思うかもしれないが、案外できていない人も多いのではないだろうか。というか、どこまで正確に裏付けを取りながら考えていくのかについては、最終的に個人による部分も大きいのかもしれない。


最後に、訳者とのインタビューで「この世界のなかのどんなことに心を惹かれますか」という質問への答えが非常に秀逸で気に入ったので引用しておく。

ブロードな(広い)知識とナローな(狭い)知識という言い方があるだろ。私は、この言葉を普通の人とはまったく別の意味で使いたいんだ。私はつねにナローな知識に注目する。ナローな知識こそ、ブロードな世界を説明することができるんだ。たとえば、ある物質に関する有機化学。それ自体は狭い専門知識だけど、この世界のすべての局面と連結する細部を含んでいる。そういう風に世界を見たいんだ。ブロードな知識は表層をなぞるだけしかできないからね。




以上、読書感想文でした。
一般の人にも面白くて読みやすい内容になっていると思います。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?