義務教育に意味があるのは、教育を受けさせる側にとって

なんのために勉強するのか?

数学の三角関数やベクトルなんか生活に必要ないし学ぶ意味がない、といった話が出てきた場合によく議論される話題かと思います。

この問いに関する様々な意見を目にしてきましたが、一番もっともらしい答えは、「将来やりたいことができるまで幅広く普遍的なことを学んでおくべきだから」「将来やりたいことをやる際に専門以外の知識が役に立つ場合もあるから」といったもの。自分の興味にガッチリ合うような分野を見つけるまでのスクリーニング的な意味合いで説明する人が多い印象です。

現実問題として、専門的な職に就くなら特定の分野だけ勉強して他はおざなりになっても問題ないかもしれません。実際に学業の成績が悪くても仕事で成功を収める人は少なからずいるでしょう。ただ、何が自分にとって最適な仕事なのか、自分のやりたいことは何なのかを理解しないうちは様々な学問を修めていた方が後々の選択肢に繋がる、と言いたいのだと思います。

以上が一般的な意見だと思います。


ただ、私は高校までに教わる勉強というのは「能力測定のためのツール」なんじゃないかと思っています。

本当の学問というのは大学で学ぶものであって、高校生までの教育は別物だと思います。それは「教えられたことを理解して問題に解答できる力」を測るためのものであって、学問や勉強というよりは作業に近いと思います。少なくとも自分が何か学びたいと自発的に調べて探究していくような学習ではなかったように思います。

何か根拠や具体的な経験があっての主張ではありませんが、大学を卒業するまで漠然と感じていたことです。


昨今ではほとんどの学生が大学を会社に入るための就職予備校だと捉えているように思います。そして、会社の入社試験には必ずといっていいほどSPIという簡単な思考力を問うテストがあります。このテストはそもそも計算能力や論理的な読解力がなければ解答することができません。つまり、義務教育すらままならない人では簡単な思考力すら測定できないことになります。極端な話になってしまいますが、読み書き計算くらいできないと、そもそもポテンシャルがどの程度あるのかすらわからないことになります。

ポーカーのルールも知らない人のポーカーの強さをどうやって測定できるでしょうか。見たい能力が様々にあるから、様々なことを勉強させてみてどの程度ポテインシャルがあるか試験してみる、というのは当然のことだと思います。自分のポテンシャルを試してみる、あるいはそれを他人に示すためには少なくとも高校教育レベルの学習内容をどれだけ理解できているか測定せざるを得ないと思います。

そういった意味では、誰もが義務的に教育されている内容でどの程度の能力があるか評価するのは客観的にわかりやすいことだと思います。専門的な実績を示されてもどの程度すごいかは専門家でないとわかりません。誰もが似たような教育を受けた内容のもとで「学力がこの程度あります」というのを示されれば、おおよそのポテンシャルは把握できると考えられるのではないでしょうか。また、評価されることだけではなく、自らのポテンシャルを他人に示したい場合にもわかりやすく伝えることができると思います。全国模試で何点とった、◯◯大学に合格した、などと言えば漠然とどの程度すごい人間なのかを一般的な人間でも把握できるというところに利点があると思います。


大学の入試で学力を問うのも似たような理由です。入学してから卒業するまでその大学で学ぶに値するか、そのポテンシャルを試しているのだと思われます。測定したい頭の良さにも種類があるから様々な教科から能力を測っていると言えます。

国語のテストだけでその人の計算能力を測ることはできないので、数学も勉強します。ただし、数学の中でも、ただの四則演算と証明問題では使う脳みそが違うと思います。勉強という大きな枠組みの中の、数学というジャンルの中でも三角関数という概念を理解して計算することができる頭を持っているかのかどうか、を測定したりするわけです。

英語を何年も勉強しているのにしゃべれないという話や、英語の穴埋め問題なんかできたところでしゃべれるわけがないという話をよく聞きますが、当然といえば当然です。高校までで学ぶ英語というのは、英会話のための英語ではなく、『知らない異国の言葉の単語を覚えて文法を理解し読み解くことがどの程度できるのか』を測っているだけなので。

私たちがやっているのは、知らない異国の単語をどれだけ覚えられるか、そして覚えた単語を利用して文章の法則・構造も理解して意味の通る文を書くことができるか、という能力を見定めるための作業です。

そういう意味では英語というのは非常に優秀な学力測定ジャンルと言えます。なぜなら暗記も論理的思考も一度に測定できる教科だからです。単語を何千と覚えることができるのかという能力。日本語と違って主語の次には述語がきて、動詞が連続で並ぶことはほとんどなく、Iのときはamだがyouやweのときはareを使う、などといった固有のルールを覚えて、そのルールの範囲内で覚えた単語を当てはめて文を組み立てていく、もしくは組み立てられた文章を読み解くゲームです。当然ルールから逸脱していれば減点されますし、ルールの中にも例外が存在するということを知らなければ思考が行き詰まります。

単語を覚えるだけなら誰でもできることかもしれません。実際、時間さえかければどんな人でもできると思っています。ただ、実際にやってみてできたという実績を示さなければ本当にできる人なのかは証明されません。英単語を覚えるなんて簡単だけど、将来英語を使うこともないし、英単語を何千と覚えるのなんて馬鹿馬鹿しいからやりません、といった理由で学力が低かった場合に、何も評価してもらえません。「たとえ今は役に立つかわからないことでもやりぬく能力」に欠如していると思われてはじかれるのがオチです。採用したくなるのはどういう人間なのか、何をもって判断すればよいのか、と経営者や人を動かす立場の人間になったつもりで考えてみれば客観的な指標が欲しくなるのは当然のことだと思います。



もちろん個々においては、教育を受けて幅広いジャンルの学問を学んだからこそ現在興味のある分野で働けているのだと考えることは可能ですし、それは利点であると思います。ある特定の能力が高いのは、もしかしたらその分野に特別強い興味があるからなどといった理由が見つかるかもしれません。そういった場合に後から思い返してみると義務教育が役立ったと思うでしょう。こういったところから冒頭で述べたような一般論が出てくるのだと思います。


長く無駄な文章になってしまいましたが、一番言いたいのは「こんな勉強意味あるのかな」といった疑問で手を止めるのはもったいないのだということです。

意味を個人の中だけで探して完結させてしまうとほとんど意味ないと考えて、学ぶ機会が損失されてしまうように思います。

個人だけでなく社会から見た教育の意味というのも考えられる視点を持っておくと、目の前の勉強に気兼ねなく没頭できるようになるかもしれません。

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