見出し画像

小説|黄昏時にコーヒーを

ついに終わりだ。

これでもう私は仕事を失うだろう。上司の叱責に耐えきれず、飛び出したビルを背にしてそんなことを思っていた。とてつもない罪悪感と後悔が押し寄せてくる。呆然とした頭で何も考えられない。

気がつくと、私は知らない電車に乗り込んでいた。なんとなく携帯を見る。会社からのおびただしい着信を確認して電源ボタンを押した。

焦げ臭いニオイのする駅で電車を降り、階段を登る。改札を抜け、さらに階段を登るとオレンジ色の光が差し込んできた。目をしかめる私の視線には知らない街が広がっている。これからどうしようか、どうしてくれようか。考えながら街をよたよたと歩いた。

駅前の商店街はほどほどの活気に溢れている。談笑する学生たち。買い物中の主婦。ありふれた風景が、やけに眩しく感じるのは気持ちが落ち込んでいるからに違いない。

導かれるように私は、細い路地からさらに細い路地へと入り込んでいった。いったいここはどこだろうか、そんなことを思いながらも私はどんどん奥へと進んでいく。

いくつかの角を曲がって路地の最深部へとたどり着いた。僅かに届く夕日が長い影を作り、その先端には古ぼけた電子看板があった。

「喫茶贖罪しょくざい

うすぼんやりとした白の背景に黒い太字でそう書かれている。意味は分からないが、見たことのある漢字だ。しかし私は、店名などどうでもいいという感じだ。

コーヒーが飲みたい。

私は吸い込まれるようにドアノブを握った。
店内に入ると、カランコロンとベルが鳴った。音に反応するように、いらっしゃい、と声がする。しかし店主の姿は見えない。私は窓際の空いている席に腰をおろした。

すかさず、水の入ったコップがテーブルに置かれた。見ると白髪交じりの老人が立っている。左の胸元には店主という文字の入ったネームプレートが付いている。紛れもなくこの人物が店主に違いなかった。

「いらっしゃい」男はニコリと笑って言った。
次の言葉を待たずに、私はコーヒーを注文した。腹は減っていない。空腹をどこかに落としてしまったようだ。そのまま誰かに持っていってほしいと切に願う。一枚の伝票をテーブルに残して、店主はカウンターの奥へと消えていった。

店内を見渡してみると、私の他にも数人の客がいた。一見するとスーツ姿の男性が多い様に見えるが、こじんまりと縮こまって女性も何人かいるらしい。それぞれのテーブルにはコーヒーだけが置いてある。ある男性はコーヒーカップに口を着けたまま、目を閉じて動かない。

それほどまでに深い味わいなのだろうか。無類のコーヒー好きというわけではないが、嫌いというわけでもない。しかし、好きかと聞かれたら好きだと答えるだろう。そんな私でさえ、こんな光景を見てしまうと期待せずにはいられない。ましてや今、私の気分は完全に沈みきっている。無意識に癒やしを求めているのかもしれない。

よく見てみると、他の客もどこかうっとりとした様子でこの店の雰囲気を楽しんでいる。話し込んでいる客は誰ひとりいない。パソコンを広げている者もいない。後ろ姿しか見えない客も、目を閉じているのだろうと想像できるくらいに動いていない。

否応にもコーヒーへの期待が高まっていく。
いったいどんな味なのか。私の数少ないコーヒー体験が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

店内に入ったときから漂っていたコーヒーの香りが、よりいっそう強くなったのを感じる。かすかな音量で流れるラジオに耳を傾けていると、カチャカチャと小気味よい音を立ててコーヒーが運ばれてきた。

真っ白なソーサーの上にカップが乗っている。隣には黄金の身体をきらびやかに光らせたスプーンが横たわっていた。つまり、よくあるコーヒーだった。何の変哲もない。どこの喫茶店で注文しても、おそらく同じようなものが登場するだろう。ミルクと砂糖はテーブルに備え付けの小物入れに入っている。米粒の入った塩の小瓶が無い。軽食はないのかもしれない。

いやいや、そんなことはどうでもいいじゃないか。今はとにかく目の前のコーヒーを楽しもうじゃないか。

一口すすると口の中に苦味が広がった。舌先に熱さとしびれを感じる。どこの豆かはわからないが、やはり豆から淹れるコーヒーというものは美味しい。二口三口すする。自然と肩の力が抜けていく。両腕の重みを感じるなんていつ以来だろうか、身体がとてもリラックスしている。

味はやはり何の変哲もない。美味しくない、というわけではない。むしろ美味しい。しかし、想像を超えてくるようなこともない。ところがどういうわけか、カップから口を離した瞬間からもうコーヒーを求めている自分がいる。

このコーヒーをずっと味わっていたい。

そんな考えが浮かんだとき、私のまぶたはぴったりと閉じられていた。
得も言われぬ高揚感が、というのはあまりにも常套句すぎるが、これ以外に言葉が見つからないほどの高揚感に包まれていた。

全身の強張りが溶け、まぶたの裏には天国が広がっていた。これまでの人生のピークが映像となって一斉に押し寄せてくる。実体験と妄想と願望が入り混じり、現実と夢の境が曖昧になった。

まったりとした幸せから抜けるように目を開けた。暗い夜の帳が落ちている。時計を見ると二時間が経過していた。相変わらず流れ続けていたラジオからは、警察の不祥事についてのニュースが聞こえる。

目を開けてからも、先程の素晴らしい体験の余韻がしばらく続いた。ようやく身体を動かしたのは、店に来てから4時間が過ぎてからだった。思い出したように閉店時間を気にしたが、まだまだ他の客もいるようでほっとした。

「あんた、ここ初めてかい」いつの間にか後ろにいた、痩せぎすの老人が話しかけてきた。
私が、そうです、と答えると老人は続けた。
「やっぱり、あんたも気がついたらここにいたって口だろう」
「やっぱり?」
「ここのコーヒーは特別だ。人間の精神をこれでもかと落ち着かせちまう。カフェインにそんな効果があるのかどうか俺には分からねぇ。でもあんたもここのコーヒーを飲んだから分かるだろ」飲み干したコーヒーカップを少しだけ持ち上げた。
「天国も見たはずだ」老人は目を閉じて言った。口元は幸せに満ちている。

あれは確かに天国だった。私はほんの二時間前のことを、はるか昔のことのように懐かしんだ。

「そんなコーヒーをみんな求めてるんだろうな。心が参っちまったやつが自然と集まってくるのさ」

 老人の目線につられて店内を見渡す。コーヒーを待っている女性の顔には確かに影が感じられる。乱れた髪型が余裕の無さを物語っていた。
「でもここに来ればもう安心だ。この店はいつでも開いてる。ここのコーヒーも、いつでもあんたを待っているさ」言って、老人は店を出ていった。深くこけた頬が、暗い影をつくっていた。

コーヒーが私を待っている。とても馬鹿らしいような言葉が、このときはやけに説得力を感じさせた。心の奥の方がぐらつくような、いや、逆にぐっと安定感が増したような。そんな感じがした。

私はコーヒー代三八〇円を支払って店を出た。明日、退職届を渡そうと決めた。

明くる日、私が会社に行くと突然上司が謝罪をしてきた。全てのことは上司の思い違いが原因らしく、私が会社を飛び出したことに重く責任を感じているようだった。

不思議と怒りは湧いてこなかった。あれほど激しい叱責を浴びせられ、人格否定さえもままならない有様だったが、なぜか私は穏やかだった。あなたの責任ではない、そんな言葉がさらりと出た。ふと、頭の片隅に昨日のコーヒーが浮かんだ。

私の危機が去ったのは、あのコーヒーのおかげなのではないか。そんなことあるはずないのだが、もしかしたらと考えてしまう。たかがコーヒーであるが、今の私にはされどコーヒーだった。

それから、喫茶贖罪しょくざいには何度も足を運んだ。辛いとき悲しいときなんでもないとき、あのコーヒーが飲みたくなった。私の生活の一部となったコーヒーは唯一無二の存在であった。

しかし、やはり不思議なのはあの店のコーヒーでないと満足できないことだった。正直、大した味ではない。コーヒーにそこまでこだわりの無い私が、大した味ではない、と確実に言えるのだから本当に大した味ではない。コンビニのコーヒーの方が飲みやすいような気もする。

ところが、他のコーヒーではどうも満足ができない。多少のリラックスは得られるが、あの店のリラックスに比べると、それはもう月とスッポンだった。当然、天国を見れるのも、あの店のコーヒーだけである。

あのコーヒーを覚えてしまったが故の弊害もあった。仕事の打ち合わせで他のコーヒーを飲むと拭えきれない物足りなさを感じてしまうのだ。こうなるともう、仕事は手に付かなかった。そんなとき私は慌てて喫茶贖罪に飛び込み、締めのコーヒーを飲むという始末だった。

喫茶贖罪しょくざいには常連客がたくさんいた。一度来店した客はかならず常連になってしまうらしい。私と同じくらいの時期に通い始めた小林という大学生にいたっては、授業とバイト以外はほぼ店で過ごしているらしく、他の客からは羨望の眼差しを受けている。

私もできればずっとここにいたい。ここにいて、ここのコーヒーをずっと味わっていたいのだ。いっそのこと仕事なんて辞めてしまおうかと考えたりもしたが、何か取り返しのつかないことになりそうなので踏みとどまった。

しかし、人には我慢の限界がある。その日私は仕事を早引きした。行き先はもちろん「喫茶贖罪しょくざい」である。夕日に照らされた扉をカランコロンと開けると、間髪入れずにコーヒーくださいと叫んだ。

私はいつもの席に座り、いつもの週刊誌を手に取ろうとして気がついた。珍しくまだ小林少年は来ていないらしい。それどころか店内にいたのは私ひとりだった。本当に私ひとりだった。店主が見当たらない。

ラジオからいつものニュースが流れている。また警察の不祥事についてだった。私は耳が痛くなったので店主を探すことにした。

首を伸ばし、カウンターの中を見る。誰もいない。

まさかここまで来てお預けを食らうとは思ってもみなかった。ああ、コーヒーが飲みたい。そう考えれば考えるほど私の我慢が限界に近づいていく。

店主はどこだ。

私は、喫茶店の中枢でもある、厨房へと足を踏み入れた。そこには苦しそうにして倒れている店主がいた。

「大丈夫ですか。いったいどうしたんです」警察関係者である以上、けが人の対応にはなれているつもりだったが、コーヒーの魅惑には勝てない。私は症状など気にすることもなく、店主を激しく揺さぶった。体調不良でもいい、とにかくコーヒーを一杯淹れてほしい。

「うう」とうめき声を上げ、店主が意識を取り戻した。しかし、私がコーヒーをくださいと発する前に、店主が語りだした。
「俺はもうだめだ。これまでいろいろな人に迷惑をかけてきた。その罪滅ぼしのためにこの店を始めたが、それも今日でおしまいだ」

すみません、そんなことを言わずにもう一杯だけコーヒーを、と言いたかったが、店主はさらに続けた。

「あんたには申し訳ないが、俺が死んだらこの店ごと燃やしてくれないか。この思い出の店と一緒に、俺を燃やしてくれ。こんなときのために、スイッチひとつで店が全焼する手はずは組んである。どうか頼む、どうか……」
言い終わると店主は息を引き取った。

ああなんてことだ、もうあのコーヒーが飲めないなんて。私は店主の亡骸を床に転がした。

いや、飲めないこともないはずだ。あのコーヒーの材料は、今目の前にあるはずだから。私はコーヒー豆を探し始めた。

探す、というほどでもなく、すぐに豆は見つかった。それは何の変哲もない、どこのスーパーでも売っているありふれたコーヒー豆だった。

「これが本当にあのコーヒーになるのか」私はとても信じられなかった。なぜなら、一度自分でコーヒーを淹れてみようと思ったことがあり、そのとき買った豆と全く同じだったからである。

もちろんこの豆に、比類なきリラックスと天国を見せるような効果などは無い。しかし、この店にはこの豆しか見当たらない。そこで私はコーヒーの淹れ方に何か秘密があるのではないかと思った。

淡い期待を抱いて秘密のレシピを必死に探す。額には脂汗がにじみ、戸棚を探る指先は小刻みに震えている。

ああ、ああ。コーヒーがのみたい。

カフェイン中毒というものだろうか、激しい焦燥感が全身を包んでいく。私は得体の知れない何かに急き立てられレシピを探した。棚という棚の引き出しを全て引き出し、ファイルというファイルも全てチェックした。ところが、というかやはり秘密のレシピなどは見つからなかった。

その代わりこの店の通帳を発見した。悪いとは思いつつ中身を確認すると、残高は数億円にもなっていた。なぜこんな小さな喫茶店の口座に数億の現金が入っているのか、私には理解出来なかった。なぜならこの店のコーヒーが飲みたくて仕方ないからだ。私が探しているのは金などではなく、この店のコーヒーなのだ。コーヒーがのみたいコーヒーがのみたいコーヒーがのみたい。ああのみたい。

そのとき、床に転がっている店主の下に取っ手を見つけた。よく見ると、その周りには正方形に縁取られた切れ目がある。間違いない、床下収納だ。私は店主の死体を蹴飛ばすと、取っ手をひっつかんだ。

蓋をぐいっと引き上げる。

中には大量の札束に混じって、小分けにされた白い粉と、派手な色をした錠剤が大量にあった。その横にはスーツケースがふたつ並んで置いてあり、おそらくその中も、ろくなものではないということがなんとなく分かった。

しかしそんなことはどうでもいい。コーヒーが飲みたい。コーヒーがのみたいんだ。

私は白い粉と派手な錠剤を鷲掴みにすると、コーヒーを淹れる準備を始めた。

ラジオからは数年前に起きた、コカインと合成麻薬MDMAの大量紛失事件についてのニュースが流れていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?