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文章

「文章を好む人間とはどんな人間だろう。これ自体が書くに値する問題である。」  

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文章ふみあきの住んでいる部屋は築七十年経つボロアパートの二階にある。二階には八部屋あり板張りの廊下を挟み四部屋づつ並んでいて六人の住人が住んでいた。昔は看護学生の寮だったこの木造アパートはトイレと台所などの水場は共同で、風呂はないが徒歩一分もしないところに銭湯があるので不便はしない。一階の入り口の扉は二十四時間施錠されておらず、中に入るとすぐ目の前に階段があった。そのまま一階の奥へ進んで行くと共同の洗濯機が一台置いてある。その奥に使われていないトイレと、今は誰も住んでいない部屋が八部屋あり、手前の部屋は床板が剥がされて基礎が剥き出しになっていて、土の上でよく猫が小便をしているからいつもひどい匂いがした。一階の通路は薄暗く管理もされていない為排他的な雰囲気を醸し出している。
 階段を上り二階に進むと小上がりになっているところの手前で靴を脱ぐ。右手にある靴箱に貼られたビニールテープには住人の名前が書いてあるが、ほとんどの住人は靴箱を使わないため、丸石の敷き詰まった半畳ほどの玄関土間にそのまま脱いだ靴やサンダルが所狭しと散らばっている。靴箱の右横の板張りのドアを開けるとさらに襖戸がある。その間五十センチほどで最初は何の為にこの襖戸があるのか分からなかったが、冬を越すとこの襖戸の有難みが分かるようになる。木造住宅の凄まじい隙間風を防いでくれる重要な役割を果たしているのだ。しかし夏は活躍する事なく大抵この襖戸も板張りのドアも全開になっている。台所のあるこの共有部屋は畳の上に年中絨毯が敷かれ、その上に正方形のちゃぶ台と長方形のちゃぶ台が二台並んでいる。窓際にある流し台の横には頼りない角材で出来たいかにも素人が作ったと思われる台があり、その上には三口のガスコンロが設置されている。ガスコンロはいつも油でベタベタしていて、文章は使用する度ガスコンロの脇に置かれた茶色くなった信用ならない布巾で気休めに拭き上げていた。ガスコンロの台の左隣には一段低いスチールラックがあり、そこには炊飯器が置いてあり、スチールラックの下の段には鍋やフライパンが無造作に積まれている。 部屋の正面には押し入れをぶち抜いて作られた空間があり、上の段にテレビが設置されている。その下にはどこかからもらって来たであろう農業用の黄色いコンテナが並び、それぞれのケースにはやはりビニールテープに住人の名前が記されて貼り付けられてる。その中には各自食料品を備蓄していて、米袋や酒瓶、インスタントラーメンなどが入っているコンテナもあれば、空のコンテナもあった。調味料は住人達で集めた管理費から買っていて、テーブルコンロの背後の棚に並んでいる。調味料は無くなると住人の誰かが買い物に行き、テレビの裏に隠してある管理費の入っている財布にレシートを入れ、財布からお金を貰うことになっている。文章は炒め物をする時必ず胡麻油を使うので、ストックが切れるとこの財布からお金を出して胡麻油を買って調味料の棚に置き、共有の物としていたが、ある時胡麻油は嗜好品だから自分で買うようにと住人のひとりに言われてからはそうしている。
 二階の床板はワックスをかけている訳でもないのに、七十年の月日を感じないほどにピカピカで靴下で歩くとツルツルと滑る。もしかしてツルツルと靴下が滑るたびに床板を掃除しているのかも知れない。二階の玄関から廊下は横向きに寝たT字の形に伸びていて、真っ直ぐ進むと突き当たり左手に個室のトイレが二つ並んでいる。手前が男性用、奥が女性用ということになっている。廊下の分岐を右に進むと廊下を挟み対面して四つずつ、部屋が並んでいる。文章の部屋は進んで左側の一番ドン付きの部屋で角部屋なので他の部屋よりも窓が多く陽がよく入る。
 文章は一年も暮らしていると足音で誰が帰って来たか、誰が出かけるところか分かるようになった。廊下を誰かが通るたびに床板の軋む音がする、その音を文章は聞き分けることが出来るようになっていたし、それぞれの住人が立てる音には特徴があった。一番手前、左側の部屋の住人は思い切り勢いよくドアを開ける特徴がある。彼は料理が好きで一度料理を始めると長時間台所を使用しているので、共有部屋を使う時は時間が被らないように、彼が共有部屋へ向かう足音がすると時間をずらすようにしていた。
 一番手前、右側の部屋は陽が当たらないうえ雨漏りがする部屋で、その部屋に住んでいたたけるはしょっちゅう文章の部屋に来ていた。最初は雨が降り出すと共有部屋に避難していたようだったが、台所で調理をする住人やテレビを見る住人が代わる代わるやってくるため落ち着かないようで、同世代の文章の部屋にやってくるようになった。雨の日に避難していたのが次第に曇りの日も来るようになり、最終的には晴れていても朝でも夜でも関係なく文章の部屋にいるようになった。武は持ち込んだノートパソコンで黙々と仕事をしていることもあれば、一緒にパソコンの画面で映画を見ることもあった。おすすめの本を持って来ることもあれば何も持たず手ぶらでやってきてただ畳の上に寝転がっていることもあった。武は濡れては困るからと言ってノートパソコンを文章の部屋に置きっぱなしにするようになり、文章は武がいつ来てもいいように、部屋に鍵を掛ける事は無くなった。

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 静子せいこがアパートに着いたその日は土砂降りの雨だった。早朝にフェリーで港に到着して、本当は歩いてアパートに向かおうと思っていたのだけれど、余りに雨足が強いのでバスに乗ることにした。一時間かけてゆっくり海でも眺めながら向かおうとしていたところが十五分で到着してしまった。すみません、ごめんください、住人はまだ寝ているかも知れないので控え目に呼んでみたが、雨音にかき消されて誰の部屋にもその声は届かなかった。仕方なく静子は扉の中に入り、懐かしい階段をゆっくりと上って行った。畳んだ傘を階段の手すりにかけてずぶ濡れになった靴を脱ぐと靴下も一緒に脱げた。足の裏がふやけていた。静子は躊躇する事なく焦茶色のドアを開き、ボロボロの襖の丸い引き手に手を掛け開く。変わってないな、呟いた言葉もまた、雨が屋根を打ちつける音にかき消された。
 静子はしばらくの間、薄暗い部屋で電気を付けることもなく部屋の隅に座っていた。午前十時頃、ようやく階段を上がってくる誰かの足音が聞こえた。襖を開いて入ってきたのは丸い眼鏡をかけた若い男性だった。暗闇にしゃがみ込んでいた静子は驚かせてはいけないと思い、すぐに立ち上がり挨拶をした。
「あれ、もう来られてたんですか」
「予定より早く着いてしまって、勝手に入ってすみません」
「いえいえ、お帰りなさい」
 そう言って男性は天井から吊り下げられた照明の紐を引き電気を付けた。初めて会った男性にお帰りなさいと言われて、不思議な感じがした。その男性はこのアパートを管理している会社の担当者で、静子がメールでやりとりをしていた人だ。静子は五年前にもこのアパートに入居していた。当時は大家さんと直接やりとりをしていたが、二年前からずっと入院しているらしくそういった物件を管理する会社が間に入っているらしい。
「よく知っているとは思うんですけど、一応空いている部屋を幾つか見てもらって、好きな部屋を選んでください」
 案内してくれる男性の後に続いて部屋を出て、最初に開いたドアは廊下を進んで一番手前の部屋だった。
「この部屋が一番おすすめです。先月改修工事をしたところなんですよ」ドアを開けた瞬間、い草のいい香りに包まれた。真新しい畳が敷かれ、白壁は漆喰が塗られ、均一に扇状のコテ跡を残していた。
「この部屋、私が住んでいた五年前は雨漏りがする部屋でした。入居している人はもちろんいなかったんですけど、当時住んでいた住人たちから大家さんに何度も直してもらえるよう言ったんですけど、結局直してもらえなくて。屋根の修理もしてますよね?」
「もちろんです。もう雨漏りはしませんよ、今日のような土砂降りの日に来てもらってちょうどよかった、この通りです」男は壁に取り付けられたリモコンを手に取ると、天井に向けてスイッチを押した。真っ白な天井に取り付けられた四角い照明器具に明かりが付くと、男は誇らしげな顔を見せ大袈裟に両腕を広げた。
「いつ修理したんですか」
「つい先月です。実は昨年末まで入居者がいたんですよ。どうしてもこの部屋がいいと言って……変わった方でした」
 結局静子はこの部屋に入居することに決めた。本当は以前も住んでいた角部屋を希望したのだけれど、生憎入居者がいて叶わなかった。それが文章だった。

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 昨日は水やりしたんだっけ、と武は思う。朝起きて枕元にある植木鉢の土の表面を仰向けに寝転がったまま触って、湿っていることを指先で確認しながら、ああそうだ昨日は雨が降ったんだった、と武は思う。
 このアパートに引っ越してくる前、武は仕事の帰りに通りかかった駅構内にある花屋で、買うつもりのなかった7700円もするその植物のふざけた容姿に目が留まり、衝動買いしたのだった。その植物はまるで植木鉢に巨大な羽ペンを突き刺したような姿をしていた。20センチほどのひょろひょろの茎の先に羽状に広がる細い葉が左右対称に広がっている。根元はドングリのような形の種子に繋がっていて、それが土の上に剥き出しになっていることに、武は見てはいけないものを見ているような気持ちになり、思わず「いいのか」とつぶやいていた。武は花屋の前でしばらくしゃがみ込み、まじまじと植物を観察していた。駅構内を忙しなく移動する人々が横を通るたび羽ペンはゆらゆらと揺れ、武は同じようにその風を感じていた。
 武は植物に「ベルヌーイ」と名付けた。花屋には土が乾いていたら水をやるように言われていたが、どうも、始終乾燥しているようなのである。毎日たっぷりと水をやってもすぐに乾いてしまう。朝、寝ぼけながら土を触る時、昨日水やりを忘れてしまったかと一瞬思うのだが、武は朝な夕な、ベルヌーイにたっぷりと水を注いでいた。それなのに土はいつだって乾燥している。一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、日に日にベルヌーイは元気がなくなっていった。
 武がアパートの見学に来たその日は土砂降りの雨だった。部屋のドアを開けた瞬間、行ったこともないが湿原の匂いがする、と武は思った。天井のあちこちから落ちてくる雨を吸い込んだ畳はブヨブヨとふやけ、黒ずんでいた。管理会社の男が、やめましょうこの部屋は、という言葉を遮って武は「ここにしましょう」と言った。見ての通り、ひどい雨漏りですよ、なぜこんな部屋に……困惑する管理会社の男に武はきっぱりと言った。
「水をやる必要がないから」
 昨日は水やりしたんだっけ、と武は思う。武はマンションに住んでいた時の癖で、朝起きるとまず植木鉢に手を伸ばし、土の表面が乾いていないか確かめるのだが、ここに引っ越して来てからというもの土が乾いていることは一度もなかった。晴れた日もこの部屋はいつもじめじめと空気が湿っていて、ベルヌーイはすっかり元気を取り戻し、窓を少し開けてやると嬉しそうに風に羽ペンを靡かせていた。

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 静子と文章は共有部屋で何度か会ううちに徐々に仲良くなった。静子は遅くに帰宅する事が多く、夜十一時頃に共有部屋の台所で晩御飯を作ることがよくあった。この時間帯に他の入居者と共有部屋で会う事はほとんどなかったが、ある日文章がやってきて、僕も今からなんです、横で作ってもいいですか、そう言って料理をし始めた。文章はちゃぶ台の上にまな板と包丁を運び、キャベツ一玉を豪快に真っ二つにして刻んでいた。この時間に晩御飯を作る人がいるなんて、珍しいと思ったがその日以降、文章と台所を利用する時間が重なることがたびたびあった。 入居して二ヶ月くらい経った頃、静子はいつものように夜遅くに晩御飯を作り、ちゃぶ台の隅に座って一人で食べていると文章がやってきて向かいに座った。何も言わずにずっとスマートフォンの画面をいじっているので、今日は晩御飯もう食べたの? と聞くと、食べました、と言ってまた視線を手元に戻した。文章は時折こっちを見ては何かを言いたそうにしていたけれど、静子と目が合うとまた視線を戻す。その間あまりに静かなので静子は自分の咀嚼音が気になり見もしないテレビを付けた。食べ終わり食器を流しに運ぼうとした時、文章はようやく口を開き、これ見てください面白そうじゃないですか近くでやってるんですけど、と一息に言った。印籠のように突き出されたスマートフォンの画面を見ると、そこには最近話題の映画の公式サイトが映し出されていた。へえ、面白そう、静子が言うと、行きますか、と即座に声が返ってきたので、行く、と言ったけれど、結局この映画を一緒に観にいくことはなかった。映画を見に行く前日に文章が急に、やっぱり違う映画にしましょう、と言ったからだ。なぜ? と聞いたら、やっぱり面白くなさそうだから、こっちを観ませんか? と提示された映画は「クーリンツェ少年殺人事件」という映画だった。聖子は部屋に戻ってから何となく気になり、最初に見る予定だった映画の公式サイトを開き、予告編を観たら性描写が満載だった。おそらく、これを静子と見るのは気まずいと思ったのだろう。 翌日の夕方、待ち合わせをしていた映画館に文章が現れ、開口一番、すみません、この映画四時間近くあって終わるのが十時頃になることが判明しました、と言った。どうします……? あなたは不安気に静子の顔色を伺っているようだった。静子がどっちでもいいよ、そう言うと、うーん、としばらく文章は腕を組んで考え込んでいる様子だった。やっぱり、やめましょう今日は、すみませんでした、いえいえ、そうして二人で一緒に映画を観ることはこの先一度もなかった。 このまま帰るのも何だし、と言うことで、文章がおすすめのおでん屋で一杯呑むことになった。二人はおでんを食べ、熱燗を二本呑んで、気持ちのいい夜風に吹かれながらアパートに戻る道を歩いていた。僕、よく歩きながら考え事をするんです、だからこの辺の裏道に詳しくて、行ってみます? うん。 その日は満月に近かったのか、月がとても明るかった。文章が案内してくれた道はアパートの近くだけれど駅と反対側の道だったので通ったことのない道だった。小さい川を越えるとすぐそこに山があって行き止まり、という手前で、ここに前住んでたんです、と文章が一軒の家を指さした。ああ、だからこの辺りのことが詳しいんだね、ご家族で住んでたの? いや、一人暮らしです。こんな立派な一軒家に一人で暮らしていたのに、なぜ今あんなボロアパートに住んでいるのか、不思議だったけれど聞かなかった。山の手前で引き返して、橋の手前で左手の小道に入る。しばらく進むと開けた道に出た。大きな鳥居が立つ、神社まで続く参道だった。 石段の手前に酒屋があり、もう夜遅いから閉まっているのだけれど、店先のベンチに文章は腰掛けた。その横に静子も並んで座った。とても静かで気持ちのいい夜だった。あの、もしよかったら、しばらくして文章は真っ直ぐ前を見たまま言った。明日僕朝早く起きないとダメなんです仕事があって、はい、だから、その……起こしてくれませんか? え、いいですよ。文章は驚いた顔で振り返り、ほんとですか、ありがとうございます! と、とても嬉しそうにしていた。 アパートに戻ると文章はごく自然に静子の部屋に付いて入ってきた。拾った覚えのない子犬が付いて来てたかのような自然な振る舞いだった。え? 静子が不思議そうにしていると、え? 起こしてくれるって……と文章も不思議そうにしていた。え? 起こすって、ここで寝るってことですか? え? そうです、え? いや、布団一つしかないし、朝部屋に起こしに行きますよ。そう言うと文章は寂しそうな顔をした。ダメですか? ここで寝たら……僕、布団いらないんで、畳の上で寝るんで。静子はこの寂し気な目に弱いのだろう、とその時気がついた。いや、布団で寝て下さい。 その夜、二人は同じ布団で身体をくの字に曲げて、触れそうで触れない距離を保ちながら並んで一緒に寝た。文章は濡れた子犬のような匂いと、ほのかに石鹸の匂いがした。 それからしばらくの間、文章は毎晩静子の部屋で眠るようになった。文章は静子が帰るのを共有部屋で待っていることもあった。静子は文章がいつ来てもいいように、部屋に鍵を掛ける事は無くなった。

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 ある朝、ベルヌーイはドングリのような形の種子を残して、細長く伸びた茎も、羽ペンのような葉も茶色くしおれて枯れてしまった。ぐにゃりと茎をくねらせ土の上に寝そべり、散り散りになった葉は植木鉢の周りに落ちていた。土の上に残された種子は以前と変わった様子はなかった。ベルヌーイが死んだのか、生きているのか、武には判別が付かなかった。数日の間、ベルヌーイの様子を見ていたが、土はいつものように湿っていて特に何の変化も見られない。武は幼少期に、学校の花壇に種を蒔いた時のことを思い出していた。あの時、確か土に指先で小さく窪みを作って、その中に種を蒔き、土を被せた後、最後に水をかけた記憶がある。武はベルヌーイの種子を土の中に埋めることにした。もしベルヌーイが生きていれば、きっとまた茎が伸び、羽ペンのような葉を茂らせるだろう。もし死んでいたとしたら、これは埋葬だ。どっちにしろ、武はベルヌーイを埋めなければならなかった。
 武は植木鉢を抱えてアパートを飛び出すと、自転車の前かごに植木鉢を乗せ流川通りに向かい真っ直ぐと山の方へと漕ぎ出した。山の手前まで道を進むと、やがてラクテンチに突き当たる。武は自転車を降りると入場券を支払い、ケールブカーに乗り込んだ。アヒルの競争を横目に、植木鉢を抱えた武はただ真っ直ぐに乙原ゲートを目指す。ゲートを出て駐車場の脇道から山に入ると、ようやく目の前に乙原の滝が現れる。なぜ今まで思い付かなかったんだろう。こここそが、ベルヌーイにふさわしい居場所だ。武は頭の上に植木鉢を乗せた格好で躊躇なく川の中に入った。胸の上まで水に浸かり、飛沫が凄まじく流されそうになるのを必死に踏ん張りながらゆっくりと滝の方へと進んだ。

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 静子が入居して半年が経つ九月の下旬、大粒の雨が降る夜の事だった。静子が部屋に帰ると文章は窓際に置いてあるテーブルに向かって座っていた。文章は椅子の背もたれに全身を預け、傾いた椅子の脚は床から離れて浮いていた。文章は腕を組んで神妙な顔をしている。テーブルの上には黒いノートパソコンが置かれていた。静子がドアを閉めた音でようやく振り返り、これ見て、とまたパソコンの方に向き直った。
「今日ある人から電話がかかってきて、出版社の編集部で働く人からだったんだけど、武のノートパソコンからあるファイルを探して欲しいって言うんだ」
「たける……?」
「武はこの部屋の前の住人で、半年くらい前に退去したんだけど、本当に急な引っ越しだった。武は僕の部屋にノートパソコンを置いたまま退去してしまって、僕と武はものすごく仲が良かったんだけど、毎日部屋に帰ると会えるから、連絡先も交換していなかったし……それでずっと僕がこれを預かったままになっていたんだ」
 静子には何の話だかさっぱり読めなかった。
「編集のその人に武の電話番号を聞けば返せるんじゃないの?」
「それが、武とはもうひと月以上連絡が取れなくなっているらしい。最後に届いたメールを転送してくれたんだけど、これ……」

――久しぶりに旅に出ることにしました。当分連絡は取れませんがさして支障はないでしょう。私は昨年末転居する際に、同じアパートに住む文章さんの部屋にノートパソコンを残して来たままにしています。これには幾つか書き上げた原稿が入っていて、いつか取りに戻ろうとは思っているのだけれど、今すぐにという訳にはいかない。文章さんに連絡をして、ファイルを転送してもらってください。ファイルの名前は「文章」です。それを寄稿して責務を全う致します。――

「小説家だったということも、この連絡が来て初めて知ったんだけど……」
「それでそのファイル、あったの?」
「今から。何となく……一人で見るのが不安だったから、静子が帰るのを待っていた」
 電源を入れると、パスワードなしにダイレクトにWindowsが起動し、すぐにファイルは見つかった。
 それはこんな一文から始まっていた。

「文章を好む人間とはどんな人間だろう。これ自体が書くに値する問題である。」


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