物言わぬ心の指標

この記事は2020年4月27日に投稿した記事のリメイクである。
また2021年3月27日と2021年4月25日に投稿したものも参照している。
加筆修正投稿日は2023年7月18日である。


邂逅

 浪費癖のあるものは
 「買い物リストを作って買い物をしろ」
 
という。

 だから、私もメモ帳の切れ端に
 「コンロカバー」「氷」
 とだけ書いて買い物に行った。

 通り雨に降られた帰り道、
 植物の苗をふたつ手に持って帰ることを、 
 この時、誰が想像していただろうか。

ガイラルディア グスト

 どちらの苗も「ガイラルディア」というキク科の宿根草である。

ガイラルディアは、南北アメリカ原産のキク科の植物で、品種によって一年草と多年草があります。現在流通しているガイラルディアは、オオテンニンギクとテンニンギクの交配種、それぞれの変種など、数多くの品種が流通し、毎年のように新品種が出ています。

【 LOVE GREEN 】

 既に枯れた花や萎れた葉は取り除いてしまったからわかりにくいが、
 一方は見ての通り黄色い花を咲かせ、
 もう一方は赤い花を咲かせるようである。

 幸い双方花芽はまだついているし
 花期は秋ごろまで続くというから、
 彼らとの付き合いの上での、
 当面の目標はこれらを咲かせることとなる。

 スーパーマーケットの青果売り場、
 鮮度を保つため冷蔵庫に陳列された切り花、
 その下の床の上。

 彼らは冷気の漂う場所に並べられていた。

 宿根草とは、
 自らが生きるに適さぬと判断した季節(大抵は冬である)には、
 地上に出ている葉や茎を枯らし、
 根だけを活かし春を待つ植物
のことを言うらしい。

 陳列されていた彼らは皆一様に、
 花芽をつけながら葉を枯らしていたが、
 あれは冬越しの支度だったのかもしれない。

 こんなに蒸し暑く、
 今年はまだ梅雨も明けていないというのに。

 植物は己の置かれている状況に酷く過敏である。
 だからこそ、生命力を感じる。

 その上、
 そんな感じで見栄えも悪かったからか、
 何より値段が手ごろであった。

 同情ではない。
 欲に負けた。

 2キロの氷とコンロカバーを背負い、
 苗は潰れぬように手に持って、
 家路を辿ったわけである。

懐古

 ガイラルディアは
 「水はけのよい土を好み、
 水やりは土が乾いたらたっぷりやると良い」
 
とのことで、 

 これは私が今育てている他の植物にも共通することであるから、
 彼らを必要以上に特別扱いする必要はないと思いたいのだが。

 今朝レモンバームを枯らしてしまったばかりである。
 原因はおそらく根腐れか、夏バテだろう。

 ここ最近調子が悪いのはわかっていたのだが、
 虫がついているわけでも、
 土が乾いているわけでもなく、
 日当たりについては
 室内でプランター栽培をしている以上
 どうにもできないことの方が多い。

 出来る限りのことをしたつもりであったが、
 今朝気づいたときにはもう干からびていた。

 彼らは言葉を持たず、
 更にはリアクションも薄いので
 「何を求めているのか」が非常にわかりにくい。
 間違った措置をすると、
 すぐにダメになってしまう。

 そうしてダメにした植物は、
 今までいくつあっただろう。

 初めて園芸に手を出したときの、
 「ヤマトヒメ」「ラカンマキ」「オウレイ」。

 ハーブに挑戦したときの、
 「ローズマリー」「ローマンカモミール」
 「センテッドゼラニウム」
 「ゴールデンクイーンタイム」。

 野菜を育てようとしたときの、
 「トマト」「野イチゴ」。

 他には
 「火祭り」「アイシクル」「ハオルチア」
 「フクシア」「クラバツム」「シルバースター」
 「ハエトリソウ」。

 あと、
 スパティフィラムの脇から生えてきた謎の植物。

 去年は3年間共にいた、
 「シンゴニウム」が枯れてしまった。

 今年に入ってからは、
 「レモンバーム」と「ペパーミント」をダメにした。

 記録に残していないだけで、
 まだ他にもダメにしたものはあるだろう。
 記憶にもないというのも、
 我ながら薄情であるとすら考えてしまう。

 とはいえ、いずれにしても、
 「その時の私の経験則と
  インターネットという集合知と本で復活を試みた」

 彼らは環境には過敏である。

 空気と土が合わなければ、
 すぐに、そこに根を張るのをやめてしまう。

 ノーリアクションで。
 あっさりと。 

 今はその様すら愛おしく、
 故に毎年、
 何らかの株を増やしては試行錯誤の上で
 生活を共にしているのではあるが。

 改めて、何度でも思い返す。

 私と「彼らが共に暮らす重要性」を。

スパティフィラム

 理由は割愛するが、
 私は園芸に対して
 興味と苦手意識を同時に持っていた。

 苦手意識より興味の方が勝り、
 園芸を始めたのが4年ほど前のことになる。 

 私がこの元となる記事を書いたとき、

海野が観葉植物と暮らし始めて
そろそろ一年経とうとしています。

2020年4月27日当初の記事より

 と綴っている。 

 なお、この時、私と暮らしていた植物は、

スパティフィラム、
シンゴニウム、トマト、
多肉植物のシルバースター、

そして、スパティフィラムの脇から
生えてきた謎の蔓性植物と暮らしております。

2020年4月27日当初の記事より

 とのことだ。

 この中にある「スパティフィラム」
 今もまだ一緒に暮らしている。
 立派な脇芽が生えて、
 去年株分けができるようになった。

 正直なところ、
 私の一番のお気に入りは
 この子だろう。

 皆一様に可愛いが、
 一番長く私のそばにいてくれて、
 私でも、植物に水をあげるタイミングがわかるようになり、
 私の育成法でも花をつけ、
 株を増やすことができるのだと、
 教えてくれたのは
 この子なのだから。

 彼がいなければ、おそらく、
 園芸への苦手意識が
 払拭されることはなかっただろう。

 優しく力強い子である。

 なお、
 ここに書いてあるシンゴニウムが、
 去年枯らしてしまったものである。

 ピンク色の鮮やかな葉を
 目いっぱい伸ばしていたのだが、
 突然弱って枯れてしまった。

 その見慣れた色が視界にないのが
 あまりにも落ち着かず、
 今年、
 二代目の同じ種類のシンゴニウムを迎えた。

 二代目は
 今はまだ、元気そうである。

面倒を見られているのはどちらか。

 我ながら、
 園芸が長い趣味となったものだと思う。

 尤も、「長い趣味」にしなくてはならぬものだ。
 言葉も、足も持たぬ静物にして
 「生物」と共に暮らすのだ。
 最後のひとつが枯れるまでは、
 ほったらかしにしておけるものではない。

 或いは、
 「ほったらかしにしておけない」と思われているのは、
 寧ろ私の方であるかもしれないと錯覚することすらある。

 彼らは太陽の光がなければ生きていけない。
 私は毎朝、彼らのためにカーテンを開ける。

 彼らは湿気の多すぎる環境を嫌う。
 私は窓を開けたり、
 エアコンをつけたりして
 部屋をちょうどいい湿度に保つ。

 彼らには虫がつくことがある。
 虫がついていれば丁寧に洗い流して、
 駆除が完了するまで繰り返さねばならない。

 彼らは水がなければ生きていけない。
 私は彼らの土をチェックして、
 必要ならば彼らに水をやる。

 彼らの面倒を見るために、
 私は厭でも己の体を動かして、
 そのついでに掃除をしたり、
 洗濯をしたり洗い物をしたりする。

 彼らと私は、
 決して広いとは言えない空間を共有して、
 共に呼吸し、共に生きる。

 前職で社外交流研修に行ったとき、
 「植物にまつわる面白い取り組み」
 話してくれた人がいる。

ある会社では、
社員ひとりにひとつ観葉植物を配る。
社員はそれを自分のデスクで育てる。

取り組みの意図は
「心にゆとりをもつこと」。

「植物の世話をするゆとりができるように、
 仕事をしてほしい」

そういう取り組みなのだという。

とある会社に勤める人より

 実際のところが
 どうなのかは確かめようがない。
 その話をしてくれた人との縁は
 もう切れてしまった。

 しかし、
 その取り組みの根幹にあるものは
 常に意識したいものである。

 私には何につけても余裕がない。
 慌てやすく気落ちしやすく、
 時々何もかもが億劫になる。

 生活を投げ出したくなる。

 それでも、
 彼らが窓辺でカーテンが開くのを待っているとき、
 葉にシワを寄せて水が与えられるのを待っているとき、
 ふと、気が付くのだ。

 私には今「余裕がなかった」と。

 無論、余裕がないのは「進行形」である。
 しかし、それに気が付くまでは
 「進行形かどうか」すら怪しいものだ。

 彼らはただ窓辺で佇んでいるだけで、
 私の状態を知らしめる。

 閉じたカーテンを背に、
 無言で語りかけてくる。

「我々の世話がおろそかになるのなら、
 まずはお前の世話をしろ。
 さもなくば、
 我々はこの土に根は張らないぞ」

 そうしたら、
 私はまずはカーテンを開けて日の光を浴び、
 彼らに虫がついていないか、
 土は乾いていないかをチェックする。
 そのついでに、私の飲み物も用意する。

 部屋の温度や湿度が不愉快であれば、
 エアコンをちょうどいい温度に設定する。

 流し台が汚れていたら、 
 まずは洗い物をして、
 食事は買ってでもいいので食べる。

 そこでようやく腰を落ち着けて、
 窓辺を見る。

 彼らは素知らぬ顔で、 
 太陽の方を向いている。

 全ては「私の身勝手」で行うことだ。
 しかし、行動のトリガーとなるのは、
 彼らなのである。

 すっかり彼らとの生活が
 当たり前になってしまった私は、
 彼らがこの部屋に置かれたプランターを
 住処と認めてくれなければ困るのだ。

 彼らがよりよく生きられる環境を整えることは、
 同時に
 私がよりよく生きられる心を整えることになる

 私は、
 足も言葉も持たぬ彼らに
 心地よい環境を提供するから、

 彼らには、
 私がよりよく生きるための指標として、
 そこにいてもらいたい。

 今日、迎えたガイラルディアとて例外ではない。

 私は彼らに、
 「ここで暮らしたくなるような環境」を与えるから、
 彼らには私に、
 「花を咲かせる成功体験」を与え、
 そこまでに至るよう世話をする
 「心の余裕の指標」になってもらいたい。


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