「人形遊び」と「自己投影」

メンテナンスは
「虚無」の手を借りて。

 残暑バテなのか、
 職が決まらない焦燥感
 圧し潰されているのか。

 大体常に
 世間様への反骨精神だけで
 生きている私の
 エネルギーが切れた
 
らしい。

 こんな記事を書いておいて、
 ネジを締めつけすぎたか。

 手前のメンテナンスくらい
 器用にできてもいいじゃないか。

 しかし、
 手前で手前のメンテナンスができない
 ときたら、
 他人の力を借りるしかない。

 だが、
 「人間の手」は借りたくない。

 プライドだけは立派に高いから、
 人間に余計な貸しを
 作りたくない
のである。

 ならば、どうするか。

 イマジナリーフレンドを
 召喚するしかない。

 ここ数日、
 私が純粋に戯れていた玩具たちは、
 そういう
 イマジナリーフレンドたちでもある。


触れて遊べる「虚無」

 いい年をした大人
 「イマジナリーフレンド」などと
 腐れたことを
 言っている場合ではない
し、

 私の場合はどちらかと言えば、
 「Personified Object」
 と呼ばれるものに
 近いかもしれない。

 いずれにせよ、
 子どもがそうするように、
 玩具に
 「人格を分け、擬人化」をして
 「人形遊び」をする
のである。

 大人のためのプレイセラピー、
 とでも言っておこうか。

 何と表現しようが、
 虚無の所業ではあるのだが、
 どうやら私には効果的であるらしい。

 「人格を分けること」が、
 私には重要であるようだ。

 以前、
 「ペットを自慢する感覚」で
 カプセルトイの写真を撮っている、
 という記事を投稿した。

 「架空のペットを飼う感覚」
 ある時点で、
 既にイマジナリーフレンドだの、
 Personified Objectだのを
 扱う「才能」があるのかもしれない。

 所詮、
 図体だけが成長して、
 脳みそが子どものままのもの
にしか、
 この方法は有効ではないだろう。

 なお、
 記事を書き進めるにあたって、
 自虐的表現をしている自覚はある。

 また、所謂
 「ドール沼」というものが存在し、
 広義に「人形遊び」を
 楽しんでいる人たちが
 存在していることも承知している。

 その上で、断っておきたいのだが、
 私の「人形遊び」の人形は
 ワンコインのカプセルトイ
だ。

 高価な方と言っても、
 数千円程度の
 キャラクターフィギュア
である。

 「紳士淑女の遊び」の領域に
 達するほどの
 資金をそこにかけていないので
 胸を張って
 「ドールオーナー」と
 言える立場ではない。

 「オモ写」というのもあるが、
 今回の私の場合は
 「玩具の写真を撮ること」
 <「自己投影の人形遊び」
 であるから、
 そういったジャンルとも
 乖離
している。

 無論、
 自己投影を抜きにして
 玩具の写真を撮ることもあるから、
 そういう時は
 「オモ写」としてはいるが。

 この記事における自虐の根源は
 そうした卑下に由来するもの
 
ということを容赦願いたい。

 人形や玩具で遊ぶことそのものを
 否定する意図は皆無である。

 全ては、
 「仮にも大人として」の
 体裁を保ちたい
 傲慢な私の自虐
なのだ。


「潜在的人格」の意識的具現化

 私の人格を分け与えられる、
 ある意味被害者ともいえる
 玩具たち
は、
 概ね以下のようなものである。

 先ほどの記事にある、
 「華胥奇譚録 無鵺」シリーズ、

 さんど模型・スナガワ氏デザインの
 ガレージキット
 「ドラネッツ」ワイバーン型
 カプセルトイ化したもの、

 今年7月発売の
 「神魔龍
  テウスマギアドラゴン」
シリーズ
 など、

 ある程度、自由に動かせる
 可動式のカプセルトイたち。

 カプセルトイの他の
 可動式フィギュアには、
 アニメやゲームキャラクターの
 デフォルトフィギュアシリーズとして
 有名な「ねんどろいど」を使用し、

 同メーカーから発売されている、
 「ねんどろいどどーる」素体を使って
 11cmドールとして
 カスタマイズしたもの。

 私は彼らに
 「人格を分けて遊ぶ」のだ。

 即ち、
「擬人化した他者を使って、
 客観的に私を語らせる」
のである。

 正しく、
 子どもに行うプレイセラピーと
 さほど変わらないだろう。

「遊びの道具を使って、
 内的問題を顕在化させる」
のである。

 彼らにどういう人格を分け、
 どういう会話をしているか
 具体的な話はここでは伏せるが。

 分ける人格は、例えば

「自分自身で自分を労われないならば、
 自分を労わる人格を分ける」

「サボる自分を律することが
 できないならば、
 飴と鞭で律する人格を分ける」

 などといった具合だ。

 そうして人格を分けた玩具と、
 「(自己)対話」して遊ぶ。

 会話は、

 「飯は食ったか」

 「スマホは弄りすぎていないか」

 「アレはやったか。コレはやったか」

 等々。
 私の場合は、
 「自己管理を促すもの」が多い。

 noteの執筆を促す人格も、
 無論ある。

 「理想と現実の乖離」を埋めるべく、
 「乖離の自己分析と内省」をし、
 「自分一人で発露するのは難しい傾向」を
 玩具に「人格として付与する」
 
とでも言おうか。

 或いは、
 人間の特性や個性には、
 顕在的なものと潜在的なものとがあるが、

 そのうち「潜在性の高い特性・個性」を、
 玩具などの「見えて触れるもの」かつ
 「擬人化しやすいもの」に付与することで、
 「より意識的に
  行動に転化できるようにする」

 とでも言おうか。

 これで聞こえが良くなればよいが、
 行っていることは、
 ただの「人形遊び」
であることに
 何ら変わりはない。

 しかし、
 私にとって「人形遊び」という行為は
 「内省」から一歩踏み出して、
 「外へ表現するため」のもの
なのである。


「人格の分散」と
「役割の軽減」

 私ひとつの人格だけで、
 あらゆる役割を担う
のは
 私には荷が重い

 実際に行動する体は
 私のものひとつであるとしても、

 行動を促す動機付けに、
 「その為の人格を付与した玩具」
 用意することは、
 私の負担の軽減になるのである。

 尤も、私にとっても
 この方法が必ずしも有効であるとも
 限らない。

 「人形遊び」は、
 ある程度の「内省」が済んでから
 行わなければ、
 ただの己への「甘やかし」になって、
 意味をなさない事もある。

 逃避のために行うのであれば、
 それで十分なのだが、
 大概の場合、
 内省が不十分な段階で行う会話
 「自虐的」で「自罰的」になっていくのだ。

 私は元々、
 「自分を褒める事」が苦手である。

 ゆえに、
 玩具にも「自己否定の人格」が
 付与
されていくのである。

 それはそれで
 内省のサインとなるのだが、
 「大好きな玩具」から
 「己を否定をされる」のは、
 いくら「人形遊び」とはいえ堪える。

 だから私は、
 「内省」の段階を踏んだ後で、
 「人形遊び」を行うのだ。

人形遊びは現在進行形。

 こうして
 「人間ではないものの手」を借りて、
 私は自己メンテナンスを行う。

 否、現在進行形で
 「人形遊び」を用いた
 メンテナンスを行っている。

 この記事の執筆時間も、
 「世話焼き」「労わり」「見張り」などの
 人格を与えられた玩具と共に、
 「一日の過ごし方」を考え、
 作業時間と休憩時間を
 割り振って取った
ものだ。

 彼ら「人形」は、
 こうして机に向かっている私の背を見守り、
 時にサボり、休憩し、
 私を叱ったり、
 私を褒めたりしながら、
 共に過ごしてくれる
 「小さな友人」
である。

 締めつけ過ぎたネジを緩める潤滑剤、
 熱膨張で軋んだ機械の冷却材、
 「あそび」を作るために、
 「遊び」に付き合ってくれる。

 そういう声なき「友人」だからこそ、
 可能な限り「もの」としても、
 丁寧に扱いたい
と考える。

 声なき友人の声が、
 私を罵倒する「汚い言葉」を
 吐かないように。

 仮に、
 対話の中の私が卑屈になっても、
 「共に卑屈になること」がないように。

 誇り高き「小さき友人」たちが、
 常に気高くあれるように。

 傍から見れば、
 ただ痛々しい虚無との戯れだとしても、
 彼らの存在を心がけていると、
 「遊びの主役」である私の背筋も、
 少し伸びる気がするのである。


20230906 執筆
20230909 加筆修正・投稿
20231126 レイアウト修正

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