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#0126【自由とは何か(ロラン夫人③_フランス革命)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

前々回の【ロラン夫人①】はこちら

前回の【ロラン夫人②】はこちら

共和制を望む勢力としては、穏健的なジロンド派と急進的で強硬的なジャコバン派がありました。

この二つの勢力は国王だったルイ16世の死刑裁判で激しく対立し、最終的には一票差でジャコバン派の主張する死刑判決が下されました。

民衆の支持もジャコバン派へと傾いていきます。

こういった情勢を背景にやがてジャコバン派が権勢を増していくと、聡明なロラン夫人は自派の敗北を予見します。

リーダーとして、自派の人間たちの避難場所や逃走経路の確保などに尽力し、地下潜行と退却に向けての準備を不眠不休で行います。

しかし、事態は彼女の予想を上回って悪化し、1793年5月31日に議会がジャコバン派に率いられた数万の民衆と軍勢に包囲されてしまいました。

夫のロラン氏やジロンド派の要人たちは一足先に脱出していましたが、リーダーであったロラン夫人はこの包囲網の中に留まり、拘束されてしまいました。

逮捕後、彼女は自分の運命を悟り覚悟を決めます。

自らの地位を得るために二十歳年長のロランと結婚したロラン夫人は、収容された監獄においてジロンド派の女王としての責務から解放されて、一人の市民マノンに戻りました。

革命の流れの中、協力関係を築いてきたジロンド派有力議員のビュゾー(パリから脱出に成功)と熱烈なラブレターを交わしあうのです。

立身出世のために抑圧していた思いを解放するかのように、人生最後においてマノンは激しい恋情を言葉に残します。

「私はこのように鉄の鎖でつながれたことを心から喜んでいます。なぜなら、こうした状態でこそ、自由にあなた(ビュゾー)を愛することができるから」

形式的な裁判の結果、彼女の処刑は1793年11月8日に執行されることとなりました。

当日、監獄からギロチン台が待つ革命広場へと途中にあった自由の女神像を通過した際に有名な言葉を投げかけます。

「おお、自由よ、汝の名の下にいかに多くの罪が犯されたことか!」

ジロンド派の女王は39歳にて刑場の露と消えました。

その後フランス革命の嵐はジャコバン派の下、更なる血を求めて荒れ狂うことになります。

以上、今週の歴史小話でした!ジャコバン派の政治については、また別途ご紹介します。

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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