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#0142【御家人の争いと源氏将軍の断絶(日本史通史シリーズ)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

月初の日本史通史シリーズです。前回の同シリーズNo.132は源頼朝が1192年に征夷大将軍に就任したところまででした。今週はその後、武家政治と天皇家・貴族社会がどのような関係性を築いていったのかを取り上げていきます。

まず、幕府政治の内部を覗いてみましょう。

源頼朝は1199年に死去すると、息子の頼家が跡を継いで二代目将軍となります。頼家の母は北条政子です。

頼家は、頼朝以来の有力武士である御家人(ごけにん)を無視し、将軍中心の政治を行おうとします。しかし、頼朝時代もそうでしたが、源氏は直接の兵をもっておらず、御家人を通じて武士を間接支配していました。

御家人に支えられてこその源氏将軍です。

やがて頼家は孤立していき、母の実家である北条一門からも見捨てられ、1204年に幽閉先の修善寺でその生涯を終えます。享年23歳。

三代将軍となった頼家の弟の実朝は、和歌の名手でした。金槐和歌集という歌集を編みます。その中で筆者が一番好きなものを紹介します。

「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも」

ひ弱で文化系草食男子なイメージよりも、雄大さと力強さを感じる歌です。実朝の歌には百人一首に選ばれている作品もあります。

辛口で有名な明治時代の正岡子規は、純朴な家風の万葉集(奈良時代以前)を高く評価し、技巧に走る古今和歌集(平安時代)を「面白くない」と切り捨てていましたが、実朝のことは非常に評価していました。

「人丸の のちの歌よみは 誰かあらん 征夷大将軍 源実朝」

万葉集最大の歌人である柿本人麻呂(人丸とも)の次に実朝を位置付けます。

実朝は和歌の力を持って、公家社会とも繋がりを強めていきました。朝廷では、後鳥羽上皇が実権を握り、新古今和歌集を編むなど、公家政治の復権に向けて鋭意取り組んでいました。

直属の兵隊のいない征夷大将軍源実朝に対して、後鳥羽は自分自身で武芸を嗜むだけでなく、西面の武士(さいめんのぶし)という直属の武士団を形成していました。

また、後鳥羽は「菊の花」をとても好みました。ここから「菊」が天皇家の花となり、日本国パスポートにも使用されている「菊の紋章」に繋がっていきます。

実朝と後鳥羽は、歌人として、武家社会と公家社会双方のトップ交流を深めていき、後鳥羽は実朝の官位を上げてあげました。

とんとん拍子の出世に御家人集団は不安を覚えていきます。再び、武家が公家の言いなりになる世界に戻るのではないか。

実朝は右大臣(太政大臣、左大臣の次)に任官され、記念パーティが鎌倉の鶴岡八幡宮で挙行されました。式も終わろうとしたところ、大銀杏に忍んでいた兄、頼家の息子公暁(くぎょう)の手によって実朝は暗殺されます。享年28歳。

実行犯の公暁も直後に殺害されてしまい、黒幕については未だに明らかになっていません。

御家人内で急速に力をづけてきた頼家、実朝の母政子の実家北条家に対する反発だという説もあれば、北条家による策謀とも言われています。あるいは、御家人全体の総意だったとも。

源氏将軍は僅か三代にて滅んでしまい、四代目には京都の藤原氏から三寅(みとら)という子どもが派遣されてきました。

以上、本日の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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