#0025【仏教伝来(日本、6世紀後半)】

こんばんは! 1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。

これから月に一週は日本史を年代順に追っていきたいと思います。

まずは「仏教伝来(仏教公伝)」についてお話します。

古代日本は、日本固有の神々を信仰する多神教の国でした。そこに朝鮮半島の友好国であった百済(くだら)から仏教の経典と仏像が公に伝来します。日本書紀によると552年のこととされていますが、現在では538年説が有力となっています。

仏教が百済から伝来する以前にも、朝鮮半島から渡来してきた人たちが多くいましたので、私的に仏教を信じる人たちはいたと思われますが、国家として公式に信じるべきかどうか議論が交わされました。

仏教を積極的に受け入れるべきとする「崇仏派(すうぶつは)」と、日本古来の神々を尊重し仏教は受け入れるべきではないとする「排仏派(はいぶつは)」に分かれて争うことになります。

前者は、経済担当の渡来系豪族である蘇我氏が中心となります。

後者は、軍事担当の豪族である物部氏が中心となります。

二派が争っている中、日本で疫病が流行ります。

物部氏は、疫病の流行は日本古来の神々の怒りであると主張し、百済から伝来した仏像が安置されていた寺を焼き討ちします。仏像も川に流してしまいました。

ちなみに、この仏像は本田善光という人物が拾い上げたとされています。彼は自分の地元に、この仏像を持ち帰って寺を建てました。これが現在は長野県にある善光寺のルーツです。善光寺に祀られている仏像は、日本に最初に伝来した仏像といわれています。(この本尊仏は絶対秘仏として公開されていません。)

疫病が治まった後、先進的な技術と文化が朝鮮半島からもたらされてくると、仏教を信じる人々が増えていきました。蘇我氏の影響力も高まっていきます。

587年に用明天皇が亡くなると、その後継者を巡って蘇我氏と物部氏の対立は頂点に達しました。蘇我氏は兵を挙げて物部氏の本拠地に攻め込みます。この時の蘇我氏の長は、蘇我馬子です。そして蘇我氏側に従軍した若い皇族の一人に厩戸皇子(うまやどのおうじ)、後の摂政(せっしょう)聖徳太子もいました。

軍事担当豪族である物部氏は三度にわたって蘇我氏の軍勢を押し返します。物部氏の大将が樹の上から矢を放っており、蘇我軍は砦に近寄ることができませんでした。

ある晩、厩戸皇子が四天王の像を彫り上げ、蘇我軍は四天王像に勝利を願います。翌朝の総攻撃にて、蘇我軍が放った矢が物部氏の大将に突き刺さります。大将を討ち取られた物部氏は敗北し、滅亡しました。

権力を握った蘇我馬子は自分の甥である崇峻天皇を即位させて権力を握ります。反対勢力が一掃されたことにより、仏教とともに中国大陸・朝鮮半島からの文化導入も促進されました。

この戦いの勝利を記念して四天王寺が建立されました。また、厩戸皇子の力で法隆寺も建立されます。法隆寺は創建当初の姿のまま、世界最古の木造建築物として奈良県斑鳩(いかるが)の地に残っています。

以上、本日の歴史小話でした!

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