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#0168【華麗な作戦。三枚のペチコート(マリア・テレジア②)】

1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。前回NO.167の続きです。

マリア・テレジアは、オーストリア継承戦争(1740年~1748年)の間にも懐妊を重ねて、家族を増やしていきました。

戦争のさなかの1743年から夏の離宮としてシェーンブルン宮殿の造営に着手、1748年に完成。開放的で家庭的な居城を設けて、愛情あふれる夫と沢山の子どもたちに囲まれて政治に従事することになります。

マリア・テレジアは、当時の王族・皇族としては珍しく初恋の人であるフランツ・シュテファンと恋愛結婚をしました。夫婦生活は円満。息子5人と娘11人に恵まれ、うち10人が成人します。死亡率の高い当時においては非常に恵まれた家庭でした。

夫フランツは時に他の女性に目を奪われることもありましたが、政治的に多忙であったマリア・テレジアはそれらを把握した上で許してあげていました。夫は妻の手のひらで踊っていたようなものです。

そのフランツが1765年に亡くなると彼女は豪華な衣装や装飾品を全て、自分の身の回りの世話をする女官たちに与えてしまい、自分が死ぬまでの15年間、黒い喪服を身にまとっての生活を送りました。

このあたりはNo.166で取りあげたエカテリーナ二世とは大きくかけ離れた家庭事情でした。

さて、継承戦争でオーストリアは、シュレジエン地方をプロイセンに奪われてしまいました。何とかこの地方を取り戻したいと考えたマリア・テレジアは、200年以上も敵対関係にあった旧来の宿敵フランス王家との関係修復を図ります。

当時のフランス国王ルイ15世にはポンパドゥール夫人という寵姫がいて政治的な権力も持っていました。彼女との関係を深めて、対プロイセン同盟を結びます。さらにマリア・テレジアは、ロシア帝国の女帝エリザヴェータとも交渉を重ねて、オーストリアの味方につけて同盟を結びます。

なお、マリア・テレジア、ポンパドゥール夫人、エリザヴェータの三人によるこのプロイセン包囲網を、三人の女性によって主導されたことから「三枚のペチコート作戦」と呼ばれています。

こういった動きに対して、1756年プロイセンのフリードリヒ二世は宣戦布告をして1763年までに亘る七年戦争を繰り広げますが、継承戦争とは違ってフランス・ロシアと同盟を結んだオーストリアの優位に戦争は進んでいきます。

1759年にフリードリヒ二世は自らが被弾するほどの大敗を喫し、一時は自殺まで考える程追いつめられますが、徐々に戦線を立て直します。

1762年にロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、フリードリヒ二世を尊敬していたピョートルがロシア皇帝に即位し、突然プロイセンと講和しました。
(この結果、ロシア貴族の支持を失ったピョートルは僅か半年で帝位を追われてエカテリーナ二世が即位しますNo.166参照。)

ロシアの戦線離脱を受けて、財政的にも厳しい状況となっていたオーストリアは、シュレジエン地方奪回を諦めて、1763年プロイセンとの間に講和を結びます。

フランスのポンパドゥール夫人も1764年に死去し、フランスとオーストリアとの関係は揺らぎ始めますが、度重なる交渉によって1769年にフランス王国の後継者であるルイ(のちのルイ16世)とマリア・テレジアの11女マリー・アントワネットの婚約が成立、翌年二人は結婚をします。

マリア・テレジアは1780年に亡くなるまで、この末娘の将来を心配していました。

マリア・テレジアが亡くなってから9年後の1789年にフランス革命勃発。1793年にマリー・アントワネットは革命の嵐の中、断頭台の露と落ちます。

最愛の夫フランツと共に、ハプスブルク家の墓所であるカプツィーナー納骨堂に埋葬されたマリア・テレジアは、どのようにマリーの最期を見つめていたのでしょうか。

以上、今週の歴史小話でした!

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発行人:李東潤(りとんゆん)
twitter: https://twitter.com/1minute_history
主要参考文献等リスト:
https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2

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