#0103【藤原道長と摂関政治の全盛(日本、10C末‐11C前半)】
1日1分歴史小話メールマガジン発行人の李です。
月初の日本史通史シリーズです。今回は平将門の乱が平定された後に訪れた藤原摂関政治の全盛期を取り上げます。
武士などの地方豪族による中央政府への反乱が失敗に終わったあと、荘園(免税私有地)という巨大な経済基盤と天皇家の外戚(母方の親戚)としての強力な政治基盤に支えられた藤原氏の覇権は衰えを見せません。
それどころか、より一層と強固なものとなっていきました。
超高級貴族(三位以上)のことを公卿(くぎょう)と呼びます。菅原道真が左遷された10世紀初頭の頃は、14人いた公卿のうち、6人が藤原氏でした。平将門が乱を起こした10世紀中盤で18人中、11人。
それが10世紀末に藤原道長が台頭したときには、23人中で17人が藤原氏と3分の2超を占める割合に達します。
藤原道長といえば、
「この世をば 我が世と思ふ 望月の かけたることも なしとおもえば」
という、現代語訳が不要なほど、分かりやすく我が世の春を詠った和歌で有名です。
一体どれだけの権力・権勢を誇ったのでしょうか。
まず道長は長男ではありませんでした。長男の藤原道隆が摂政・関白となり政治を取り仕切ります。
当時の一条天皇には、娘の定子を嫁がせました。
この定子に仕えていたのが、枕草子で有名な清少納言です。
道隆が病死すると、摂政・関白の地位は、道隆の息子たちではなく弟の道兼に譲られますが、就任後わずか数日で死去してしまい、藤原道長が内覧(事実上の摂政)の地位を獲得します。995年のことです。
道長は、ライバルとなりうる道隆の息子たちを地方へと左遷させて、自らの権力基盤を整えます。
その後、娘の彰子を一条天皇に嫁がせます。
この彰子に仕えていたのが、源氏物語で有名な紫式部です。
華やかな宮廷文学が栄えていた裏では、血みどろの権力争いがあったのです。
1000年に一条天皇は、皇后に定子、中宮に彰子を据えることにします。中宮とは皇后を意味していましたので、一人の天皇に二人の最高位の妻がいる状態となりました。
一条天皇のあとは、道長の甥にあたる三条天皇が即位します。この三条天皇にも道長は自分の娘を嫁がせますが、道長は彰子が産んだ自分の孫への後継を三条天皇に迫ります。
何度か三条天皇は拒否しますが、イジメともいえる執拗な攻勢を受けて遂に譲位を決意します。
即位した道長の孫は後一条天皇となり、この孫にも自分の娘を嫁がせます。
甥と叔母の結婚です。三代に亘って自分の娘を中宮にする「一家三后」を成し遂げます。この時の宴会に詠った和歌が「この世をば~」だったのです。
摂政の地位こそ、嫡男の藤原頼通に譲っていましたが、実質的な権力は道長が一手に握っていました。
しかし、この藤原氏の権力基盤は、血縁関係に依拠したものです。まず藤原氏に娘が生まれる。その次に生まれた娘が天皇との間に男の子を生む。という不確実性のあるものでした。
道長の死後も頼通とその弟の教通が、自分たちの娘や養女を天皇家に嫁がせますが男の子に恵まれず、ついに藤原氏を母としない後三条天皇が1068年に即位することになります。
以上、本日の歴史小話でした!
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https://note.mu/1minute_history/m/m814f305c3ae2
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