日常系ー連合赤軍を超えてー

 政治の時代に、観念に囚われた人々の亡霊が漂っている。

 観念は突き詰めればお互いを殺し合うことになる。そのため、最初から私たちは転向させられる時代に育った。「やっぱり民衆が大事」、「やっぱり生活が大事」と、早い段階から突っ込まれる。むしろ、自分でそのように突っ込みを入れる。転向した状態でスタートするようなものである。

 そのような、ラディカルにやりたい人にとっては苦しい時代(リベラルでやることを求められる)に、むしろ観念を完全に捨ててしまうことで何かに対して踏みとどまろうという運動が、オタク文化における「日常系」作品であると思う。

 オタク文化が元々非政治的なので、その極致が日常系であり、そのような自閉的なものは検討に値しないと切り捨てることも可能であろう。また、言説化するにしても、それはより楽しい仲間内でのコミュニケーションのための語りに過ぎないかもしれない。

 しかし、これらの作品は、観念に囚われた人々の亡霊を乗り越えて現れたものであるように見えてならない。連合赤軍やその他の内ゲバでの死者たち。その遺骸が積み重なった先に、日常系は顕現した。

 観念の外部を僭称するストーリーテリングは、むしろそこに観念が刻み込まれている。村上春樹『ノルウェイの森』で「大学を解体するならしてくれよ」と学生運動に対して斜に構えていた主人公が、いざ大学封鎖が解除されて授業に出てきた運動家学生に「単位を落とすのが怖いのか、そんな意志でやっていたのか」と急に民衆の側から説教するような態度をとり始めるのが良い例だ。「解体するならしてくれよ」と無関心になるならば、戻ってきた運動家学生たちをそっとしておいてやらなければ筋が通っていない。村上春樹チルドレンたる「セカイ系」作品たちは、リアルさを装ってキャラクターたちに痛みを与えておきながら最後はエモ―ショナルに美しく収めてしまうという限りにおいて、観念の外部を僭称するという欺瞞を犯している(例えば三秋縋『三日間の幸福』では、主人公がヒロインをレイプしようとして冷たい目で無言の糾弾をされる。ここで主人公は拒絶されるように見える。しかし結局はヒロインとのお互いの自己犠牲を通じた運命的な愛によって救済される。本当の拒絶ならば、レイプ未遂の時点でヒロインは退場するべきであろう。一見、観念(ここでは「きみとぼく」の恋愛)の外部にいるように見せかけつつ、内部なのである。)。

 セカイ系の「言い訳」の上手さに比べれば、「日常系」作品の言い訳のなさは醜悪でさえある。キャラクターの精神的葛藤は(ほぼ)存在せず、なぜか女性キャラクターばかり登場するという不自然さ。学園や小さな町に守られた箱庭のような物語空間。「こんな退行的なものを摂取していたら終わりだ!」と思わず説教を始める人がすぐ現れるだろう。

 しかしその醜悪さこそ、観念に囚われた人々の亡霊から離脱していることの現れである。

 転向するかしないかを問うように見えながら転向が答えという現代に規定されているのがセカイ系(あるいはドラマ風のリアリズム的アニメ?)をはじめとするオタク文化の最前線(一般向けに「お出しできる」、われらのジャパニメーション!)であり、そのような葛藤はやはり観念に基づくものなのだ。転向という決められた答えをいかに露骨に出さないかをめぐって、外部を僭称してみたり、「俺は元気だぜ(長男だ!)」とやってみたりして、観念を上手く操縦しようとしている。

 そのような困難に徹底的に背を向け、醜悪さをも抱えることを厭わない日常系は、観念に囚われた人々の亡霊を、観念を問題にしてストーリーテリングする作品とは全く違う形で射抜くことができるのではないか。

 日常系(あるいはラブコメヌーベルバーグも該当するであろうか)の、自閉的、退行的な側面をむしろラディカルさと捉え、観念の総括を行う力に変えることを模索する運動こそが必要とされている。

 中野重治『村の家』で、大衆の代表者のような父親から糾弾され、筆を折れと言われた共産党員の主人公が、「それでも、書いていこうと思います」と決意するような転向は、吉本隆明が紹介したこともあって参照され過ぎたように見える。転向した状態でスタートさせられる現代では、そのような転向は単なる現状肯定の方便に使われかねない(「やっぱり生活が大事」!)。

 私たちには日常系という武器がある。「やっぱり生活が大事」という「生活者」からさえ唾を浴びせられるような「日常(生活)」が。これをラディカルに使わないという手は無いであろう。


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