見出し画像

前田裕二さんの「タコわさ理論」で考えるデジタル社会の学びのかたち

日本通信教育学会の研究論集に掲載される書評を依頼され,以下のように書いてみた。せっかく書いたのでここにも掲載しようと思う。


今回取り上げさせていただく書籍は「デジタル社会の学びのかたち Ver.2 教育とテクノロジの新たな関係」(A・コリンズ,R・ハルバーソン著/稲垣忠編訳/北大路書房)である。

本書は2012年に出版された「デジタル社会の学びのかたち 教育とテクノロジの再考」の第2版である。
本書は以下の通り,全10章で構成されている。

第1章  どのように教育は変わろうとしているのか
第2章  テクノロジ推進派の意見
第3章  テクノロジ懐疑派の意見
第4章  アメリカにおける学校教育の発達
第5章  新しい制度(システム)の芽生え
第6章  教育における3つの時代の変化
第7章  失われるもの,得られるもの
第8章  学校はどうすれば新たなテクノロジとつきあえるのか
第9章  結局,何がいいたいのか?
第10章 テクノロジ世界のなかで教育を再考する

本書では,新しいテクノロジに対して擁護も批判もしないように意識されており,むしろ学校,学習,テクノロジの関係に何が起きようとしているのか,歴史的な観点から観察され,記述されている。つまり,本書を読み,それをどう解釈し,実践に活かしていくかは読者の我々に委ねられている。

本稿では,本書の中でも特に第7章「失われるもの,得られるもの」の失われるものについて検討したい。私はどちらかというとテクノロジ推進派である。だからこそ,テクノロジによって何が失われるかについて検討することには,大きな意味があると考える。

第7章では,失われるものとして,テクノロジによって新たな格差が生まれるのではないかと示唆されている。現在は,ほとんど全ての人がスマートフォンやタブレット,ノートパソコンなどからバーチャルな教材(※本書の言葉をあえてそのまま使用)にアクセス可能になり,オンラインアクセスに対する貧富の差は縮まっている。しかし,ヘンリー・ジェンキンスら(2007)は「参加ギャップ」という新しいデジタルディバイドが生じていることを指摘している。

日々の会話の中にバーチャルな教材が含まれている家庭では,子どもは学習環境を自分でデザインする主役になる。一方,YouTubeやチャットなどテクノロジを娯楽や連絡に使う程度の家庭では,同様のことはめったに起きない。そして,学校がバーチャルな教材や日々の学習に活用できるデバイスを取り入れることを無視した場合,生徒間の知識やスキルの不平等な事態は深刻なものとなると警鐘が鳴らされている。


私が考える参加ギャップが生じる要因は,以下の2つである。
① バーチャルな教材で学べることを知識や経験として知らない
② バーチャルな教材で学べることを知っていても,それらで学ぼうとする意欲がない

①について考えているときに連想したのが,前田裕二(2018)の「タコわさ理論」という造語である。

幼稚園児に「好きな食べ物は」と聞くと,たいていの場合は「カレー」「ハンバーグ」「エビフライ」といった回答が返ってきて,「タコわさ」という答えが返ってくることはほとんどない。その理由は単純に,幼稚園児が「タコわさ」を食べたことがないからである。たとえ,それがどんなにおいしいものであっても,自分が知っていたり,経験したりしていないと選択肢になることすらないということが「タコわさ理論」として表されている。


eboardやKhan Academy,MOOCなど質が高く,無料で学べる教材はオンライン上にたくさんあり,それらは今後も増え続けていくことは予想される。だからと言って,経済的に格差があろうとも,学べない・学ばないのは自己責任であるとすることはできない。先述の「タコわさ」同様,知らないこと・経験していないことは,「やりたい」と思うことすらできないのだから。

家庭で経験できないことはどこで経験させることができるのかと考えたときに,学校,特に公教育の果たす役割はまだまだ大きいと考える。公教育制度は,あらゆる子どもたちを受け入れ,社会階級の不利を是正し,全ての学習者に学ぶ機会を提供することを理想に掲げた制度である。そんな公教育の現場で,バーチャルな教材や日々の学習に活用できるデバイスを取り入れないという選択を教師や学校がすることは,そういったもので学べるという知識や経験をさせられないまま生徒を社会に送り出し,生涯学習の時代に困難さを抱えさせてしまう懸念がある。ゆえに,本来ならば公教育こそバーチャルな教材やデバイスを積極的に活用して教育をする必要があるが,現実はそうはなっていない。

GIGAスクール構想によって1人1台端末が実現しつつあるが,これだけで状況が一変するかというとそんな安直なものではないことは誰の目にも明らかである。現場で実践に取り組む教師が指導をどれだけ変えられるかにかかっている。教師にはどうしても自分が受けてよかったと実感した教育を再生産する傾向にある(私もおそらくそうである)。そして,知らないこと・経験していないことを,「やりたい」と思うことができないのは,生徒だけでなく教師も同じである。教師自身が生徒や学生であった頃にはなかったようなバーチャルな教材やデバイスを用いて,現在学ぶことをしていなければ,おそらくそれらを用いて教えることは難しいだろう。ここにも教師が学び続けなければいけない理由があるように感じる。サッカーの元フランス代表監督ロジェ・ルメール氏の「学ぶことをやめたら,教えることをやめなければならない」という言葉が胸に響く。

本稿では,本書の一部を取り上げ,そこで考えたことを記述した。本書はある章の一部分だけを取り上げても,多くのことを考えさせられる書籍である。本書には未来の教育はかくあるべきという断定的なことは書かれていないが,それを考えるための材料やヒントを提供してくれる書籍ではないかと思う。