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ウンベルト・エーコ『小説の森散策』を散策しよう

かつて『薔薇の名前』を読むのに挫折して以来、ウンベルト・エーコはなんとなく敬遠してしまっていたけれど、行きつけの本屋の棚の片隅にこの本を見つけたとき、未練を思い出して手に取りました。

表紙の紹介文に目を通すと、「読者は小説をどう読むべきか、作者は読者にどう読んでほしいと願っているのか」についてのエーコの講義記録だと書いてありました。

私がたとえエーコの小説を読めるほど成熟していないとしても、文学入門の講義を読むことはできるかもしれない。そしてこれが読めたら、エーコの小説も読めるかもしれない。

そんな動機で読み始めたこの本は、日本語版序文で「実に多岐にわたる聴衆の構成を念頭に置いて、物語論のさまざまな概念が専門家以外の人々にも分かってもらえるように、あまり専門的にならないように心がけることにしました」とあるように、本当に「引用をふんだんにちりばめ、余談をはさむという、この雑談風の(散策にはうってつけの)スタイル」をとっていました。

本当に、主張を端的に説明するというよりは、私たちに考えるように促し、自分たちで結論にたどり着くことを求めるかのような、つまり私たちに「散策の楽しみ」を与えてくれるような本でした。今後、物語を読むときにはきっといつも思い出すのだろうと思います。読むときの姿勢を変えてくれる本、と言ってもいいかもしれません。

だからは今日はこの記事で、私がこの本の導きに沿ってたどり着いたところの話をしたいと思います。散策の楽しみをイチから自分で味わいたい人は、ここで記事を閉じて、自分でこの本を読んでみるのがいいのではないかと思います。

まぁ、私もなるべく誤ったことは書かないように気を付けるつもりなので、この記事を読んで骨子を知り、それを方位磁針にようにして散策を始めるのもありかもしれません。また、骨子を知っていたとしても、それを描くためにこの本がどう語るのかを楽しむことは十分できると思います。私もこの本をよりよく理解するために 2 回読み直し、この記事を書くためにまた何度か部分的に読み直しているわけですが、読めば読むほど比喩や引用の納得度が高まっていく感じがして、どんどん面白くなってくるくらいなので。

さて、初めに、この本で説かれている「読者」と「作者」の概念について簡単にまとめるところから始めたいと思います。

経験的読者とモデル読者

まずは「読者」の概念について。エーコはこう説明します。

ひとつの物語のモデル読者は経験的読者ではありません。経験的読者とは、テクストを読んでいるときのわたしたちであり、(…)つまりだれもが経験的読者なのです。経験的読者には(…)どう読むべきかなどという法律は一切課せられていません。(P.25)

まず、文章を読む1人1人は、誰もが「経験的読者」であると言います。そして経験的読者は、文章を読みたいように読み、感じたいように感じます。ちょうど次の例のように。

たとえばみなさんがふかい哀しみにとらわれているさなかに滑稽な映画を見る羽目になったとしましょう。なかなか愉しむことなどできないのはお分かりでしょう。それどころか、数年経って、もう一度同じ映画に出会うことになったときも、相変わらず微笑むことさえできないかもしれません。(P.25)

映画自体は滑稽なもので、とても哀しい気持ちを起こさせる内容ではないにもかからわず、映画とは関係のない個人的な事情によって、映画を観ながら悲しみを見出している。こんな状態の観客を、エーコは「経験的」観客(もしこれが映画でなく文章であったなら、経験的読者)と呼びます。

このときみなさんはあきらかに経験的観客として、その作品を間違った方法で「読んでいる」わけです。ですがいったいなにと比べて「間違っている」のでしょうか? 監督が思い描いていた観客のタイプ、つまり気持ちよく微笑んだり、直接には自分を巻き込むことのない話を追いかける準備のできている観客と比べてなのです。このタイプの観客(書物なら読者)を、わたしはモデル読者とよんでいます。(P.25-26)

モデル読者とはつまり、”作品が想定している読者像” のことと言っていいと思います。私たちが経験的読者として個人的な記憶や状況を反映して作品に好き勝手な感情を抱いたり、自分自身を投影したりすること自体は、「禁じられているわけではありません。だれだってよくやっていることですから」とエーコは言います。でも、それはあくまで私的な行為であって、「公な行為ではありません」。それは、万人のものであるはずの「物語の森の中を我が物顔で闊歩するに等しいのです」(P.27)。

ようするに遊びにはルールがあり、モデル読者とは遊びの同伴者なのです。(P.27)

物語の森を散策するにはルールがあり、モデル読者はその散策の「同伴者」であると。(でも、誰の同伴者なのでしょう? 「作者」の? それとも……? これについてはまた後で説明……できるといいな。)

モデル読者の「表れ方」

モデル読者について、もう少し理解を深めていきましょう。

わたしが提示したモデル読者は、テクストの指示の集合体、つまりまさに断言やその他の信号のかたちをとって、テクストの表面にあらわれるものなのです。(P.39-40)

モデル読者は、文章が明示していたり、「信号」を出してほのめかしていたりするもの。

でも文章が想定している読者像はあくまで「仮構の読者」であって、読者の役割の一要素でしかないよ、読者にはどんな読み方もゆるされているんだから、という異論を引用しつつ、エーコは次のように言います。

この講義のなかでわたしが主として扱うのは、まさにこのテクストのなかに描かれた「仮構の読者」なのです。たとえ幻の存在であっても、仮構の読者に肉体をあたえることこそが解釈の主要な課題だと考えるからです。(P.41)

たしかにモデル読者は、リアルに存在する生身の私たちではなく、文章が想定している幻の読者なわけです。しかし、その幻を具体的にとらえることこそが、「文章を解釈する」行為の核となる、と。

ちなみにモデル読者は、物語だけでなく、「あらゆるテクスト」において存在するとエーコは言います。

多様な視点に開かれたテクストだけではなく、(…)鉄道の時刻表にだってモデル読者は存在するわけで、テクストはそうした読者それぞれから、さまざまな協力を期待しているものなのです。(P.41)

「テクストはモデル読者にさまざまな協力を期待している」というのも大事なポイントです。あらゆる文章は、その文章が期待するとおりに読まれることをもって完成する、ということ。

経験的作者とモデル作者

では、モデル読者に特定の読み方を「期待している」のは「誰」なのでしょうか。作者でしょうか? いいえ、事はそう単純じゃない。エーコは次のように言います。

誰がモデル読者を構築するのでしょうか? 作者でしょう! わたしのちいさな読者諸君はたちどころに答えるにちがいありません。
 けれど経験的読者とモデル読者をなんとか区別するところまで漕ぎ着けたのですから、作者についても同様に、物語を書きながら、おそらくは精神分析医くらいにしか分からないような理由から、どんなモデル読者をつくりあげるべきかを決める、経験的存在としてとらえるべきではないでしょうか? 先取りしていってしまいますが、わたしにとって、物語テクスト(実はあらゆるテクストなのですが)の経験的作者という存在はほとんど意味を持ちません。(P.29-30)

読者を区別したのと同じように、「経験的作者」と「モデル作者」も区別すべきだと。経験的作者とは、実際にその文章を書いた生身の作者のことを言います。その人はしばしば、文章からはまったく読み取れない背景――生活の状況や精神の状態など――を抱えていたりします。その背景は文章に影響を与えているかもしれませんが、文書を読み解くにあたってその作者の背景というのは、あくまで、「もしかすると参考になるかもしれない」くらいの話にすぎないわけです。

では、モデル作者とはなんなのか。これが、一言で表しづらい。

そう、たしかに最後にはモデル作者は、ひとつの文体としてすがたをあらわすことになります。(…)ですが「文体」という言葉は意味が過剰であると同時に過少でもあります。(…)、モデル作者はつねに完璧で、まるで造物主たる神のように、作品の内部にも背後にも、作品の彼方にもいて、抜け目なく爪を研いでいると考えてもかまわないでしょうし……逆にモデル作者は、つねに傍らにいて、わたしたちにやさしく(あるいは尊大にでも陰険にでもよいのですが)話しかけるもので、その声は語りの戦略、つまりわたしたちが歩みを進めるたびに伝えられる指示の集合体であり、わたしたちがモデル読者たらんとするなら必ず従わなければならないものだと言うこともできるからです。(P.38)

つまりモデル作者とは、文章が、モデル読者に向かって伝えてくる「声」――この文章はこう読んでほしいという「指示の集合体」――を発する何者か、のこと。

モデル作者はモデル読者に対して暗に明に「これにはこんな意味があるんだ」と語りかけてくる存在であって、モデル読者は文章を読みながらその「声」を見出す楽しみを与えられているわけです。

モデル作者とモデル読者の関係性を、エーコはこう表現します。

モデル作者とモデル読者が、読書というプロセスのなかでだけ、たがいのすがたを認め合う存在である(…)。両者はたがいに相手をつくりあげるのです。(P.53)

よし、ここまできたら自信が持てました。さっき「これについてはまた後で説明……できるといいな。」と言ったことについて。もう一度、問題の箇所を引用しますね。

ようするに遊びにはルールがあり、モデル読者とは遊びの同伴者なのです。(P.27)

「遊び」つまり物語の森の散策にはルールがあり、モデル読者はその散策の「同伴者」であると。「では、誰の同伴者なのでしょう?」と私は先ほど疑問を投げかけたわけですが、その答えは、「モデル作者の同伴者」でしょう。モデル読者とモデル作者は、「読書というプロセスのなかで」、「たがいに相手をつくりあげるのです」。

ただし、モデル読者とモデル作者は、仲良く一緒に道を進んでいくというわけでもなさそうです。なぜなら、モデル作者の姿は最初は見えないから。モデル作者はモデル読者を導く「声」として現れ、モデル読者が森を通り抜けたころにようやく姿がはっきりしてくる(かもしれない)ようなものだから。

イメージしてみましょう。
モデル読者になろうとする読者は、モデル作者の声を聴こうとしながら物語の森を進みます。その声をたしかに聴き取ったと感じ、この方向に呼んでいるに違いないと思った道に分け入っていきます。……それが現実に作者本人(経験的作者)の期待する道筋なのかどうかはわかりません(正直、本人がどう思っていたかはどちらでもいいのです)。ただその道が、行き止まりになることなく森を楽しませ、通り抜けさせてくれるのであれば、それは散策コースとして成功していると言えます。つまり「その解釈は成り立つ」のです。そのとき、読者は「私はモデル作者と共に森を抜けた(私はモデル読者としてふるまった)」と、確信を持って言うことができるでしょう。その隣では、モデル作者がほほ笑んでいるかもしれません。

物語をどう読むべきかについて、生身の作者(経験的作者)は何も語らないこともあるし、大げさに言ったり嘘を言ったり、あるいは「気づいていなかった」ということさえもありえます。でも、私たちは読書を通じて「モデル作者」の意図を探し続けることができます。経験的作者が何を語ろうと、あるいはまったく語らなかろうと、私たちは物語の森をさまよいながら「モデル作者」の声を聴き取り、森を抜け、その姿を発見できる可能性があるのです。

さて……、ここまでの「モデル読者」と「モデル作者」の説明が腑に落ちたならば、この本の残りもとても楽しく読むことができると思います。この本は全6章で、本編が終わるのが262ページです。ここまでに引用した箇所のページ数を見ていただくとわかるように、まだ53ページ。第1章で説明されている概念に触れただけです。ので、あとたっぷり5章を楽しんでいただけます。でもどんどん面白くなるので、心配はいりません。

では、時間のない人はここで終わりにするとよいと思います。
以下は私自身のために、(あるいはもっと遊びたい人のためにも)以下は個人的な読書ノートとして、大切だなと思ったところをいくつか引用していきます。引用だけ読んでも意味がわからないところはあるかと思いますが、それでちょうどいいかもしれません。ぜひ、ご自身でこの本を手に取ってみてください。

(メモ1)物語は速度を要請している

まずは物語が「速度」を要請することについて。物語っていうのは必然的にそういうものなんだよ、というお話。

ですが目下のところは、あらゆる虚構の物語は必然的・宿命的に速度を要請するのだ、とだけ言っておくことにします。(さまざまな出来事や登場人物によてひとつの世界を構築するとしても)それがこの世界についてすべてを語り尽くすことなどできないからです。強調をするだけなのです。そこで一連の空白を埋めるために、読者の協力をもとめるわけです。(…)あらゆるテクストは、読者に自分の仕事の肩代わりを要請する怠惰な機械なのです。(P.13)

物語は基本的に、私たちの日常と比べてとてつもない速さで進んでいるということは、言われてみれば当然だなと思います。「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」のなかには、おじいさんが朝何時に起きて何を食べたとか、おばあさんが川へ行くまでの道で何を見たとか誰に会ったとか、天気はどうだったかとかは全然書いてないじゃないですか。それは物語上、省略されているんですよね。

(メモ2)道草の技量を磨く必要がある

速度が大事になる一方で、「道草」もまた大事なのですというお話。

なにか重要な、もしくは魅力的なことが起ころうとしているときには、道草の技量を磨く必要があるということです。(P.96)

これも本文ではとても面白い例を引いて説明してくれています。ちょっと抽象的に、簡単に説明するとすれば、とある「山場」の快楽をもっとも味わえるようにするために、その前にあえて退屈だったり苦痛な描写を長々と入れる、というような技法がある、ということです。エーコはこれを「緩慢な快楽」と呼んでいます。言わば「じらし」の技法ですね。

もうちょっと詳しく見ていきましょう。この部分、まさに「緩慢な快楽」を与えてくれるかのような、丁寧な説明がされています。

小説作品において時間は三つの形態をとって登場する(…)。物語の時間、言説(ディスコース)の時間、それに読書の時間です。(P.103)

「物語の時間」はストーリーの内容の一部です。もしテクストが「千年が過ぎた」と言えば、物語の時間は千年です。しかし言語表現のレベルすなわち物語言説(フィクショナル・ディスコース)のレベルではその発話を書く(そして読む)ための時間は非常に短い。だからこうして「言説の時間」を短縮することで長大な物語の時間を表現することができるわけです。もちろん、この逆も起こります。(…)一晩と一日の間に起こったことを物語るために一二章を費やしたネルヴァルは、わずか二章で何カ月、何年もの間に起こったことを語ってしまいます。(P.103)

言説の時間というのは、読者の反応に対応し読書の時間を定めるようなテクスト戦略の結果なのです。(P.109)

小説作品における言説の時間と読書の時間が何であるかを決定するのはたしかに困難なことですが、時として、厖大な描写や語りのなかの綿密な細部が情景描写のためというよりも、読書の時間を遅くさせ、作者がテクストの享受に必要であると考えるリズムを読者がつかむようにさせるためなのだということに間違いはありません。(P.112)

はい、引用が長くなったので、まとめます。
小説における「時間」三形態
・物語の時間 ←ストーリーの一部(例;「千年が過ぎた」の「千年」)
・言説(ディスコース)の時間 ←これは「語る時間」というイメージ
・読書の時間 ←読むのにかかる時間。

多くの物語では、この3つの時間がそれぞれ異なります。たった2秒の出来事(物語の時間=2秒)をまるまる1ページ使って、他の箇所と同じようなスピードで読んだら3分くらいかかる文章量で描写した場合に(言説の時間=3分)、ある読者はそれを読み飛ばしたので1分かかった(読書の時間=1分)、という具合です。

一方で、3つの時間を一致させた形態の作品もあります。

リズムを読者に指示するために、物語の時間と言説の時間、そして読書の時間を一致させた作品もあります。テレビでは「実況生中継」と呼ばれるものです。(P.112)

余談:ポルノの手法

三形態の時間を一致させた作品=実況生中継みたいなもの。
その手法が活用されている一つの例が、なんと、ポルノ映画だといいます。

三つの時間(物語・言説・読書の時間)の一致は時としてまったく非芸術的な目的のために利用されることもあります。(…)かつてわたしは、ある映画がポルノかどうかをいかに科学的に決定するかという問題を考えたことがあります。(…)わたしは(大量のハードコア・ムービーを見たあとで)確実な規則がひとつ存在することを発見しました。(…)(性行為の描写も含んだ)映画の中で、登場人物が車やエレベーターに乗り込むとき、言説の時間が物語の時間と一致するかどうかを確かめるのです。(P.115)

ポルノ映画では、性行為以外の部分の描写で「三つの時間の一致」がみられる、と! なぜそうなるかというと、それが制作上、安上がりだから。というのも、ある程度の尺のある映画のなかで延々と性行為だけを描写したら観客はうんざりしてしまうので、余白の部分がいると。で、その余白の部分をいかに安上がりに作るかというと、物語的強調や省略をせずにただ現実と同じ分だけの時間をかけて車に乗るとか、歩くとか、飲み食いするだけにする、と。

この部分、かなり余談だと思うけど、わかりやすいしすごく印象的だったのでつい引用までしてしまいました。ただ、余談にも意味はあって。このポルノの「じらし」と、これまで偉大な作者たちが行ってきた「物語上のじらし」は、とても似てるんですよ。どちらも官能的であるという点において。

ただ、高尚さや芸術性においては、かなり違います。物語上のじらしの技巧、つまり道草の技量とは、快楽を増大させるため「だけ」の安上がりな遠回りではない、ということ。そこにどんな含意や、意図が込められているか、ということ。

……さて、永遠に書き続けるわけにもいかないので、この話題はここらで終わります。

(メモ3)私たちが物語を求めるのはなぜかって?

この普遍的なテーマについては、いろいろなところで、いろいろな人が、いろいろなことを言っていますが、エーコはまずこう説明しています。

子どもたちは、人形やおもちゃの木馬や凧を使って遊びながら、物理の法則や、いつかは真剣に取り組まざるをえない行動といったものに馴染んでいくものです。物語を読むことも、遊びなのです。この遊びを通して、過去・現在・未来にまたがる現実世界の無限の事象に意味をあたえることを学ぶのです。小説を読むことによって、わたしたちは、現実世界について何か真実を言おうというときに感じる不安から逃れるのです。(P.162)

人は物語に触れることで現実世界に意味を与えることを学ぶというのは、たしかにそんな実感があります。「今日はいい日だった」とか、「あなたに出会えてよかった」と言うとき、私たちは過ぎ去った一日や相手と過ごした日々に意味を見出して、物語として把握しているはずです。もっと細かい粒度で言えば、ラブストーリーを読むことで自分の恋人の態度の意味を知るとか、スポーツ漫画を読むことで日々の練習の大切さがわかるといったレベルの学びを得られることもあります。さらに日常的な言動の意味――「人はこういう時に悲しむんだな」とか、「この行動は”善いこと”なんだな」とか――の理解もまた、物語から得ることは多いでしょう。

揺るぎない真実が虚構にはある

でも、「事はそう単純ではありません」(P.163)と、エーコは言います。私たちは普段、虚構の世界の出来事よりも、現実世界での事実のほうが信用に値すると思いがちです。「かぐや姫が竹から生まれた」ことは、竹取物語の世界ではそれが起こりうるんだな、という心構えなしには信じらないわけですが、現実世界での出来事については、自分の経験によって、それが揺るぎない事実かどうかを判断できると考えているわけです。

たしかに自分自身が体験した出来事であれば、そのとおりです。しかし自分がその場に居合わせなかった事柄についてはどうでしょう。もう、自分の経験に基づいて判断するわけにはいきません。その事柄を真実だと判断するには、その出来事を語る人が信用に値するのか、常識や科学知識と照らし合わせてありえそうなことなのか、一緒に話を聞いている人が反論していないか、など、さまざまな情報から推測するしかありません。

現実世界の表現を受け入れる方法は、虚構作品が表現する可能世界の表現を受け入れる方法とほとんど変わらないということです。(P.168)

例えば、現実世界で「織田信長は本能寺で死んだ」と信じることは、竹取物語の世界で「かぐや姫が竹から生まれた」と信じることと、ほとんど同じだというわけです。

むしろ、現実世界での真実のほうが、小説の世界での真実よりも、不安定であるとさえ言えます。いま、私たちの多くは、「織田信長は本能寺で死んだ」のは現実の出来事だと思っていますが、それは現段階で見つかっている史料からそう言われているだけで、もし今後、それを覆す新しい証拠が見つかったときには、認識を改めないといけません。でも、竹取物語のなかで「かぐや姫が竹から生まれた」のは今後どんな歴史的事実が明らかになったとしても、真実であり続けるわけです。

この、真実の揺るぎなさこそ、小説が私たちに安らぎを与えてくれる要因だと、エーコは言います。

きわめて重要な美学的理由を別にすれば、わたしたちが小説を読むのは、真理概念に疑問を差し挟む余地のない世界に生きるという安心感を小説があたえてくれるからだと私は考えています。(P.169)

必ず意図があるという安らぎ

なんで物語を求めるのか、の理由、もう一つ。

わたしたちは巨大な迷宮に生きているのです。その世界は『赤ずきん』の森より、はるかに複雑で広大なために、いまだにわたしたちには、その小径の見分けもつかなければ、ましてや全体像を描くことなどできないのです。ゲームには規則があるものだと期待しながら、何千年ものあいだ人類は、この迷宮の作者はひとりなのか複数なのかという問題に取り組んできました。そして神または神々について、それが経験的作者や語り手、あるいはモデル読者だとみなしてきたのです。(P.213-214)

この世界は巨大な迷宮で、そこを通り抜けようとするために人類は神や神々を見出だしてきました。言い換えれば、この世界をどうにか読み解こうとして、その作者の姿を探し求めてきたわけです。

虚構が現実より快適に感じられるのには、もうひとつ別の理由があるのです。(…)なにかメッセージはあるのだろうか、あるとすればそのメッセージにはなにか意味があるのだろうか、こうわたしたちが原始以来いまだ問いつづけていることこそ、現実世界とわたしたちのあいだに横たわる問題なのです。物語の世界についてなら、そこにはなにかメッセージがあって、その背後には作者という権力が、創造者であり読書の指針としてひかえていることに、一片の疑いもありません。(P.216)

現実世界の物事・出来事には、必ずしもそこに「込められたメッセージや意図」なんてないかもしれない。たまたま、ぐうぜん、そうなっているだけかもしれない。天災や疫病なんてまさにそうだし、そもそもなんで生まれてきたのかとか、なんで死ぬのかとか、そういうことだって。

でも何千年もの間、そこに神や神々の意図を見出してきた人類が、そんなにかんたんに「そこに意味なんてない」と、受け入れることができるとは思えません。実際、私たちは多くの場合に、何かが起こったらそこに意味や意図を、探してしまいます。探した先に答えなどないかもしれないと感じていたとしても、探すことをやめるのは難しいだろうと思います。

その点、物語の世界には、必ず何かしらの意図があると信じることができます。解釈を求めるテクストに向き合い、そこからメッセージを受け取ることができる。その絶対的安心感よ。

私たちはこの揺りかごの中で、現実世界と向き合う不安と闘うための力を養っているわけです。解釈が間違っていたとしても、そもそも意味なんてないかもしれなくても、この世界を通り抜けるためには何かを読み取って道を選び続けないといけないのだから。

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そんなわけで、読書ノートはここまでで終わります。
1万字くらいあるんだけど、これを最後まで読んだ人はいるんだろうか。いたらすごいね、友達になれるかもしれません。ありがとうございます。

9月の初めから書いていたこの記事、3カ月くらいかかったけど、ようやく公開できてうれしいです。

それでは、おやすみなさい。
これからもいい読書をしたいですね。


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