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大屋政子さんの話

(初出、2013年12月6日、下に画像あり)

 読者様は大屋政子さんをご存じでしょうか。私はこの人を尊敬しています。すでに亡くなられていますが、亡くなられて今も残念です。

 彼女は政治家の娘さんであり、血筋の良い生粋の大阪のお嬢様です。元帝人の社長夫人でもあります。そしてそして。

 筋金入りのバレエ好き!!

 もちろんまったくの庶民の私との接点はありません。大屋政子さんと私との共通点は一つだけ、バレエが大好き。

 古いバレエ好きなら彼女のした功績は大きいことを知っておられると思います。彼女に関する伝記は探せばあるので私ごときが今更書くことではないですが、少しだけ思い出話。

 ある時、マイヤ・プリセツカヤさんの公演があり、若かりし頃の私も見に行きました。その時に大屋さんをお見かけしました。彼女の席はやはり、というか当然の最前列の一番ど真ん中です。

 ヨーロッパのフォーマルな劇場公演のようにピンクと赤の入り混じったソワレをお召しでした。そして最前列というのに、オペラグラスを待たれてプリセツカヤさんをじっと見つめておられました。すでに年取った(という言い方は悪いですが)プリセツカヤさんの表情を見守るというか厳しく見つめるというか、そんな感じでした。

 踊り手側はああいうことをされると身がひきしまると思います。自分の踊っている時の自分の解釈や演目への感情、公演当日のコンディションを見透かされるような感覚を持たれるでしょう。プリセツカヤさんは名手で押しも押されないプロですし、大屋さんとは直接話されたこともあろうかと思います。だから全く動じず堂々と踊られたと思います。

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 私も最前列でこそなかったですが、すぐ近くにいたので、プリセツカヤさんの踊りもよかったのですが、大屋さんも尊敬していたので実際に見ることができて、とてもうれしかった。

 さて幕が引けて劇場が明るくなりました。大屋さんに気付いた他の観客が「あ、大屋さんよ…」という感じで見守って? おられました。メディア露出が多かった時期で興味本位でタレントを見る感覚の人も多かった。

 私は大屋さんとどうしても話したかったのですが、シャイなので話しかけられませんでした。というかこういうプライベートな場所で世間的に顔を知られた人に気易く話しかけるのは失礼だし、下品ではしたないことです。

 同行した友人からは「気持ちはわかるけどあんまり見つめるのも失礼よ」と腕をひっぱられるくらい私は凝視していました。

 私を含めた何人かのファンらしき人の視線を悠々と受け止めつつ、彼女は取り巻き? の同じくソワレを召した女性を引き連れて劇場を後にされました。

 当時テレビのバラエティ番組で見かけるようなカン高い声は全く出さず、上品なふるまいで声も低くひそひそという感じでした。もともとテレビに頻繁に出たのはバレエコンペティション開催のための資金集めだったのです。

 目立ちたがり屋の大阪人という位置づけの扱いだったのですが、大屋さんの出自を知っている人はあの人はテレビにでるような人じゃないのに、いろんな番組にでて自分を笑いモノにしている…なぜあえてお笑い芸人になったのか、大丈夫かいな、という目。まったく知らない人からは「もう若くないくせに年を考えずアホっぽい超ミニスカートをはいて闊歩するいつも大きな口をあけて笑っている大阪のオバハン」という目でおもしろがられていたと思います。けっこう人気があったと思います。

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なぜ私ごときが大屋さんの話をここで書くのか、というと彼女のした功績がとても大きいのに、世間的に認知されてないのが残念なのです。

 彼女はバレエが大好きで自分のバレエ団を設立しました。国際的な権威あるバレエコンクールやコンペティションがないのを残念がって自分で作りました。

 この「自分」で、というところが大屋政子さんらしいところで、私が尊敬する理由です。

 彼女は官の出す援助金、助成金の類はアテにしませんでした。帝人の筆頭株主さんでもあったので彼女の指示で大金は動かせる立場なのに、それもしませんでした。自分で事業をもっている実業家さんなので(不動産業などされていました)資産は持ってますがそういうことでお金を使うと経費では認められません。本当のお金持ちの人はお金持ちでけっこう制約というものがあって、湯水のようにお金を使う人はあんまりいないものです。それでもバレエ団設立や著名なバレリーナやソリストを海外から呼ぶとそれはもう際限なくお金が必要です。

 彼女がメディアに出たのは公演、コンペティションに出てくれるダンサーや賞金を出すため稼がないといけなかったのです。

 彼女の計算された強烈な個性と無垢な話しぶりで人気はあったでしょう。個人的に私から見ると雲の上の財界人ですけど、親しみやすい笑顔ときれいな足のラインにファンを自称していました。

 また語学も通訳不要なぐらい堪能な方でしたから、海外の著名人とも親しい交際ができたのです。一体当時の外交官でもないのに、民間人で個人的にこうして交際できる日本人が大屋さんをのぞいて誰ができたというのでしょう。

 特にベルギーの国王一家とも親しく、当時の仏大統領ともタメ口で話せたという。民間外交官と言われるぐらいあちらのセレブな人たちから信頼され親しまれていました。

 ヨーロッパの元バレリーナからはマサコには良くしてもらった、マサコには感謝しているといわれる留学生も未だにいます。名前も顔も違うのに、日本人バレリーナというだけで大屋政子さんを連想して「MASAKO」と呼びかけられたというエピソードもあります。海外へバレエ留学されるお嬢さん、特にベルギーに行かれる方には大屋政子さんの伝記などは読まれていくことをおすすめいたします。すでに時遅しで当時の外交官たちのイジワルが効果を及ぼしているかもしれませんけれど。年老いた元プロバレリーナでも「MASAKO」は日本では有名ではない、うちにくる留学生たちも誰も知らないし尊敬されてないと思われていて話題にされないかもしれませんけれど。

 大屋政子さんの没後は大屋さん主宰のバレエコンサートはなくなりました。あれは本当に大屋さん個人の力だけでもっていたのです。

 こういった活躍に嫉妬してか当時の外交官からは表立っていじめられた、と名指しで実名をあげていました。よほど腹にすえかねる思いもあったのでしょう。

 また我が国におけるクラシックバレエの浸透に尽力した東京バレエ団にも多額の援助をされていました。佐々木忠次氏通じてでしたが何故か大屋さんの功績がなかったことにされています。理由はわかりません。いろいろなことがあり、つらい思いをされたことも多々あったでしょう。

 いまわの際には実の娘さん(大屋登史子氏)に「こんなに弱い母を許してね」とおっしゃったそうです。傍目にはあんなに力強く世の中を生き抜いていき、好きな人生を歩まれたようにみえるのに。

 世の中には知られていなくとも母娘ともに、内外的に大変な思いがあったのではないかと思います。

 バレエが大好きで海外に飛び出して活躍されていく方々にお願いします。先人のバレリーナや大屋さんのようなバレエの庇護者の苦労を思いやってください。彼女たちの努力があってこそ、今があると思います。そしてどうか日本人であることを誇りに思ってください。子供向けの薄い本1冊でいいので日本独特の礼儀作法や日本史を勉強してから行かれることをおすすめいたします。海外の歴史や文化を勉強するのも大事ですが自分の育った国を誇りに思うことはもっと大事なことだと私は思うのです。


※今回は下記にあるデイリー新潮さんの記事を読んで、懐かしく思い、過去の拙原稿を掘ったものです。画像は記事から引っ張ってきました。桂由美デザインのウェディングドレスで。

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拙作元記事、初出2013年12月6日

https://ncode.syosetu.com/n2189bw/

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下記は大屋政子さんがもらった勲章です。Wikipediaより。日本からは一個もないのに、注目してください。

1977年 フランスプリマルキドキユエバス章
1977年 イタリアメリト勲章カバリエーレダーマ章
1978年 エジプトアラブ共和国勲一等科学芸術功労章
1978年 マダガスカル国功労勲章
1979年 フランス芸術文化勲章コマンドール章勲一等
1979年 ブルガリア国薔薇勲章シルバー章勲一等
1979年 ハンガリー文化功労章

追記・佐々木忠次さんも日本からの勲章は一個もありません。晩年にあげますと打診がありましたが、きっぱりと断りました。お二人とも、クラシックバレエ公演や啓蒙にあたり、日本政府や外務省から邪魔にされたと公言されています。

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パトリックデュポンとヌレエフ。ダンサーに囲まれて。

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足キレイ! ロッド・スチュアートと。

 


ありがとうございます。