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「遠ざかる情景」#1 解説(後編)

夕凪や 陽が差す河原 ただ一人 止まった刻は 私と似たり
夕凪や 私と似たる夕の風 ただ一人止まり 動かぬ孤独
夕の風 凪の刻には 静止する 私と同じく そのままでいて 
静止する あの風は、まだ動かない 夕凪よ そのままでいてくれ   
陽が差した 河原は夕凪の刻なり 風よ そのままと留まってくれ

昔、親戚の家に行った時に、凪というのは、風が止まるときだと聞いたことがあった。それが、何故か印象深く、それ故、その時の時間が夕方で、凪=夕刻であると、いつも連想してしまう。
風が吹く、それは、風が吹き去っていくことも表すことだ。そして、時間というものが常に動き、物事が一つにとどまっていないことを表すと私は思う。
どんなに幸福な時であっても、そして、逆に不幸のどん底にあっても、それは永遠ではない。それは、ある種、幸福なことだ。
だとしても、やはり、幸福な時間が過ぎ去っていくのは、寂しいことでもある。何より幸せというものは掴んでいかなければならないものだ。それ故、人生は苦渋に満ちていると言えるのだろう。
もし、凪のようにある時で、時間が止まったら……。満ち足りていなくも、どこかで人生が止まったら、おそらく、それは多くの人にとっての幸福である。
そして、人の心は、ある時期で止まってしまうことがある。その時、心は未来に進むのをやめ、本来の世界の歩みから、次第に遠ざかっていく。気づけば、埃を被り、老朽化した過去の世界の人となっていく。
それは、“休息“というより、停止である。世から遅れているという結果生まれる、自己嫌悪か、もしくは孤独が始まる。ある人は、夏で終わり、ある人は、秋で会わる。誰もがどこかでそうなのだ、人はみな、止まってしまった思い出の中で生きている。
 そんな、理想と、それを心に描くゆえに、孤独になっていく、人間の悲しみを詠んだ。

退廃と 若さの混ざる 路地の華 白い化粧に 毒混じる紅
若さには 退廃が混じりて 差す紅の 眼を刺す赤は 毒が混じりて  
退廃の 毒が混じりし 娘らの 刺す紅の赤 路地の花びら
路地に咲く 紅の赤には 毒混じる 娘らが咲かす 白粉の華
路地に咲く 娘の肌に 化粧花 毒の紅さす 細指白き
退廃故 路地に咲く花 うつくしき 何故毒の紅 差して歩くか

風俗嬢、遊女でもいい。路地裏に派手に着飾った少女たちがある。
路地の花。薄暗い路地の中には、怪しく光る、美しくも、悲しい花が今日も咲き続けている。彼女らは、闇に輝くような、白粉を塗り、毒々しく輝く紅を履いて、夜の世界に住む。そして、そこには、必ず悲劇が混在している。
今を生きる我々も、時に彼女らとすれ違い、彼女らもまた、私たちと擦れ違う。しかし、そこには、壁があるのだ。それは、おおよそ、越えることはできない壁が……。
そう、我々は、悲劇と隣り合わせの中で生きているだ。そして、自分の中に、少しでもそれが、包む始めると、その渦の中に巻き込まれ出られなくなる。この世には、夜の世界と昼の世界が混在している。それを詠んだ。

止まれども 背を押され歩く アスファルト 宿なき人と私は似たり
宿もなき 人と見比べし私の 因果背負えど 背を押す群衆
群衆が 背を押す アスファルトの孤独 宿もなき人と 私は似たり
宿もなき 人と笑いし あの頃と 違い中年の私は 孤独
宿もない 私と似たり その人も 群衆に背を 押されて歩くか
背を押され アスファルト往く 群衆よ 宿なきあの人も そうであるか

二つ前の歌のように、人生とは歩き続けなければならない。
もし、それに背いたとしたら、通り過ぎる群衆は、時に、その人の背を押し、理不尽に踏みつけていく。“甘えるな“、その罵声をぶつけるように……。
しかし、我々は人間である。どんなに“ウジウジするな“と言われとも、誰もが心の中に、ウジウジを抱えているものである。けれども、誰もが知っている。そんな奴は、生きていけないと……。
そんな時、路上生活をしている人が目に入る。彼らは、どのような理由でその人は紺暮らしをしているのか? 彼らは、悲しい人々である。けれども、どこかで、あの人たちに対する侮蔑が浮かぶ。
本来あるべき家に住まず、路上で寝ころび、時にゴミ箱の中に廃棄されたものを漁って生きる。子供の頃でも、今でもいい、誰もがどこかで、あの人たちを嘲り、時にそれを形にしたはずだ。
だけれども、世にで、理不尽と惨めさを背負い始めたとき、それは変わる。自分もまた、彼らになるのではないか……。その不安が、暗い夜に胸を包む、それは、払っても、そこに残り続ける。
若者に嘲られ、悲しい目を見せる“その人“と、自分が重なる。
暗い夜、雨の中を歩く惨めさを歌いたかった。

夕暮れに 長崎の街は 染まりゆく 受難の土地を“終わり”が包む
長崎の 街が夕暮れに 濡れている “終わりの刻”が包みゆくなり
夕暮れや “終わりの刻”が包む街 受難の路を歩んだ長崎
夕暮れや “終わり“が包む長崎よ 受難の路は、すでに昔か
長崎よ 受難の路は もう昔 今は“終わり”が包む夕刻
夕暮の闇は “終わり”を告げるもの 受難の路を生きた長崎

キリシタン文学で有名な遠藤周作氏が、第二の故郷といった長崎。
長崎は近世、幕府によるキリシタン弾圧が行われた土地である。
幕府の命により、多くのキリシタンが弾圧され、厳しい拷問や、処刑によって多くの者たちが死んでいった。その弾圧の中、棄教を迫る拷問は繰り返され時には、人が生きたまま焼かれた。
穴釣り拷問と言って、逆さづりにされたまま、こめかみなど傷をつけるという拷問がある。拷問を受けるものは、頭に血が上り、逆さづりにされているため、傷から血がぽたぽたと落ちる。そのような恐ろしいことが、この時で行われていた。
また、長崎は、原爆が落ちた地でもある。悲劇や受難を乗り越えてきた、この土地に、今日も今日も夕暮れ刻が来る。悲劇の流血と涙と吸ってきた土地故の寂しさが、今日もそんな情景に滲み出る。
悲劇と現在、過去と未来は、決して交われぬようで、どこかで繋がっている。そんな情景を謳った。

風吹きて 雨溶かしたる 廃ビルに 埃被りし マネキンの群れ
野ざらしの 廃ビルに群れる マネキンは 埃被りて ポーズ決めたり
廃ビルの 吹き晒されたる ロビーには 埃被りし マネキンの群れ
廃ビルで、マネキンたちが 群れ並び ポーズ決めたるは 哀しき様と  
野ざらしの 廃ビルに 立つマネキンは 埃被りて ポーズ決めたり
野ざらしの 廃墟のロビー に群れている ポーズを決める 寂しきマネキン

一番自信があるかも。
子供の頃、テレビの中で、廃墟に古くなったマネキンが置いてある、そんな情景を怖いと思ったことから。
 大きなショッピングモール、そして、マネキン、ファッションと言う、
最先端の象徴である。しかし、それも、朽ちてしまえば、それは醜い遺物でしかない。それが必要とされていた頃は、最先端ということで、美しく、キラキラと明るいものであった。それが、いざ必要とされず廃棄されると、それは野に晒され朽ちていく。埃を被り、風にさらされ崩れていく“それ“。
一応、形はとどめ、当時と同じくポーズを決めても、それに浮かぶのはおぞましさや悲しみだけだ。若い人たちが、集まって青春を謳歌しているように、群れ立ってポーズを決める、美しく彩色されたマネキン。
そして、もとは、電気によって明るく演出され、人が溢れていたショッピングモール。明るく笑いながら、歩く人々と同じ服を着、スポットライトを浴びていたマネキン。彼らは、すまし顔で、ポーズを決める彼らを並べたら、何かファッションの話題で盛り上がっている気がする。
 しかし、残っているのは、廃棄されている“それら“だけだ。そんな文明の悲しみを謳ってみたかった。

総評
自分の鋭くなったセンスや、迸る凶器のようなものをうまく表現できていない。
情景を謳う俳句と違い、短歌には季語もなく、多くの自由が約束されている。それゆえ、短い文の中で、多くの心情を組み込むことができる。しかし、その余裕がかえって、悪い方に行ったかもしれない。
ただ、自分の範疇でであるが、自分の思考といったものが、頭の中には、確かにあり、それが少しばかり、作品の中に出すことができたのはうれしい。
 長崎についてのテーマは、もう少し勉強していけば、もっと深まる気がするし、マネキン、路地などの文明的退廃といったテーマも同じである。自信はない、しかし、伸び代はある。

もしよろしければ、コメント待ってます。

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