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#推し短歌 その壱 〜推しへの愛編〜

 令和、という元号。その出典は万葉集だった。
 これは当時大きな話題となり、西暦2019年にして1200年以上前の和歌集が売れては注文が入るという、書店員だった身としてはちょっとした経験もしたものだ。(一概には言えないが、地方の書店であれば基本的に古典は一年に売れるか売れないかのレベルである。そもそも常備しているか?という…)

 そんな令和のいま、「推し短歌」なるものがちょっとした話題になっているらしい。軽く検索してみれば、それにまつわる本も出るらしくて驚いた。

 短歌。そんなもの、学生時代に授業で触れたきりだ。似たような人だって多いと思う。
 それなのに、この令和において短歌ブームが来ていると言うのか?なんだかすごい。「推し」という概念が広まっているだけでなく、短歌まで詠むようになるとは。
 文化芸術に対するオタクの適応力・応用力の高さは目を見張るものがあるなと、他人事のように思ったのだった。

 まあしかしわたしもオタクの端くれ。面白そうなのでやってみたわけである。(※こういうところだと思う)



一首め


触れられない けれど確かにそこにいる 夢でもいいから眺めていたいわ

 人の数だけ「推し」もいるわけで、ならばわたしにとっての「推し」とは?

 今でこそ「美容オタク」など「オタク」という言葉があらゆる方面で使われているけれど、わたしは元々のイメージ通り、サブカル的な意味でのオタクである。
 ゆえに「推し」と言われて思いつくのは基本的に本の中、ないし画面の中でしか見られない存在だ。つまり手が届かないところにいる存在。

 触れられない。けれど、確かにわたしの世界に存在している。

 推しよ、いつもありがとう。元気付けられています。
 わたしはあなたという存在が夢だったとしても、変わらず眺めていたいと思うよ。



二首め


聴こえるか きみを見るたび胸が鳴る けれど視線は交わらぬまま

 前述の通り、わたしの「推し」は基本的に本の中、画面の中に存在している。ゆえにわたしの方を「向く」ことはあっても、意思を持ってわたしを「見る」ことは無い。
 わたしはドキドキしながら推しを見ているけれど、推しはわたしを見ていない。切ないジレンマである。


 ……と、切ない胸の内のようなものを語ってみたけれど。要は本音と建前というやつである。
 そもそも推しを直視できると思っているのか? わたしの推し、めっちゃ顔が良いんやで?

 顔が良すぎて直視できんわ。こっち向かんといて!

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