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読書ノート 「言葉・狂気・エロス」 丸山圭三郎


大学時代の読書ノートに、この本のコメントが残っている。こんな感じである。

 「しかし、気の滅入る本である。『特定共時文化とその歴史を横断的に、重層的なテクストとして読む営みを通して見えてくるものは、私たち一人ひとりの個体を深層において支配する原型でもなければ、人間の欲望の同一ルールでもなく、むしろ逆に、〈言葉を話すヒト〉、〈象徴を操り操られる動物〉が生きる世界の質的差異と文化の無根拠性である』にしても『文化のヴェールとはその下に素顔がないことを隠す仮面であることに気づかねばならないであろう』にしても、文化がなんだかつまらなーい、しょーもなーいもので、たとえば食事の後の食器類をどのように片付けるかというような、そしてその違いにしても気分次第の違いであって、本当の理由があるわけではない、といった思考の拡大概念でしかないのだ。人間の本能が、我々にはなにか意味のある、すばらしいものを生み出すという思いこみを、この本は見事に打ち破る」

 今回再読し、うーん、それほどネガティブに捉えなくてもいいんじゃないか、といった気持ちになった。大学生当時、それほど読み込まなかった記憶があり、さらっとした感想がその時の気分と合わさり、悲観主義的な言い方が前に出たのだろう。ネクラな奴である。


 琴線に刺さった部分を抜き出してみる。その時々で、読みは変わるのだ。

  • ソシュールとラカンにおける、シニフィアン・シニフィエの定義は異なる。

  • ソシュールのシニフィエはレフェラン(指向対象)ではなく「空の持つ限りない充溢」「意味を持たない音イメージが空虚ゆえに生み出す新しい意味」である。

  • ヴァレリー風に言えば、手段としての歩行がもつような、目的がないところに生み出される、舞踏の意味と美しさである。

  • 「歩行は散文のように、常に、一つの対象を志向し、その目的は対象と合体することにある。…これに対し舞踏は、詩と同じように、その行為の中に究極がある」「舞踏はどこにもいかない。もし舞踏がなにかを追求するとしたら、それは、一つの観念的対象、一つの快楽、一つの幻の花、もしくはある忘我の恍惚、生命の一極点、存在の一至高点なのである」(ヴァレリー「詩について」)


  • ラカンの「無意識の言葉」。ラカンは無意識を言葉として捉えた。

  • 無意識のレベルにおける言語活動では、意味と音の間には、固定した絆がない。

  • 夢に見る光景が目まぐるしく変化して特定の意味とつながらない(置き換え)

  • 夢に見る光景が停止していても複数の意味の重なり合いがある(圧縮)

  • ラカンの言う「シニフィアンは他のシニフィアンとの相関関係によってのみ意味と持つ」(「エクリ」)はソシュールと同様の認識。そしてラカンの「無意識=言葉」は、ソシュールの「深層意識の言葉」と同じ。更に言うと、東洋哲学が探求した意識の深層の言葉に近い。

  • ナーガールジュナの『中観』に基づいて般若空観を宣揚した〈中観派〉の考え方はソシュールやラカンの思想を先取りしている。


  • 縁起説…すべての事象は関係の産物。自性(自立・普遍・単一)の否定。これはソシュールのいう〈実体なき関係の世界〉。その原因を存在喚起力としての言葉に見るところも共通している。

  • 〈唯識派〉は現象的世界の根源に阿頼耶識を立てる点が、〈中観派〉との相違。

  • 〈識〉…心の動き。五感と表層意識(小乗仏教)→末那識と阿頼耶識を加える〈唯識派〉→純化した阿頼耶識として、アマラ識を加え九識説もある。

  • 〈阿頼耶識〉は、過去、現在、未来にわたって生死する輪廻の主体。「貯蔵庫」の意味を持つ。あらゆる存在を生み出す〈種子〉という精神エネルギーが薫習される。井筒俊彦によれば、これこそが深層意識の言葉であり、この言葉は、概念的文節の支配する表層意識の言葉と違って、明確な文節のない、〈呟き〉のようなものである。

  • 「言語意識の深層には既成の意味というようなものは一つもない。時々刻に新しい世界がそこに開ける。言語意識の表面では、惰性的に固定されて動きの取れない既成の意味であったものさえ、ここでは概念性の留金を抜かれて浮遊状態となり、まるで一瞬一瞬に形姿を変えるアメーバのように伸び縮みして、境界線の大きさと形を変えながら微妙に移り動く、意味エネルギーの力動的ゲシュタルトとして現れてくる」(井筒俊彦『意味の深みへ』)


  • 井筒のいう深層の言葉=ソシュール=ラカンの「コードなき差異の戯れ」

  • 「コードなき差異の戯れ」とは、多義的象徴であり、自らと交換可能な指向対象をもたない言葉の姿。

  • 「コードなき差異の戯れ」は、本能を失った人間が、分節しきれない欲動を意味化する現場で生ずる差異。

  • 「コードなき差異の戯れ」発生の現場は、ヌミノーゼ体験(ルドルフ・オットー)であり、恐怖と快楽の両価性を帯びる。

  • 「コードなき差異の戯れ」の動きのみに身を任せていては生きることができない。ゆえにこれを信号化(コード化)して意識野に送り出す。そしてそれらはまた、絶えず意識下へ抑圧される。


 勉強になります。内容は深く芳醇です。今回は十分の一くらい理解できたかな。まだまだ読みこなせてません。



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