見出し画像

読書ノート 「アーレント政治思想集成 2 理解と政治」 アーレント 齋藤純一他訳


 フラグメントを置く。

 「最も尊敬する方」

 「(ヤスパースについて)個人的に決して忘れられないのは、何とも名状しがたい、人の話に耳を傾けるあなたの物腰、批判を提起する用意は常にあるけれども狂信からも懐疑主義からも等しくかけ離れた寛容、そして最後に何よりも、すべての人間は個性を持っているがいかなる人間の理性も無謬ではないことに気づかれていたこと、こうしたことです」


 率直に振る舞う人間、底意のない人間


 自らの生存に対して正当な理由付けを与えるという何とも非人間的なことを他人に求める際のいたたまれないような居心地の悪さ


 今顔を合わせているのはよりによって死の工場に雇われていたひとや政府が行っていた恐るべきことについて何か耳にしたときに「大事を行うには多少の犠牲がつきものだ」と考えたひとではないかという、心にわだかまって解けない疑念


 全ドイツ民族の複雑な共同犯罪行為と全ユダヤ民族の盲目的な憎悪という事実の基盤

 収容所での恐怖や反応について
「報告(レポート)はできても伝えること(コミュニケート)はできない」

「未曾有であったのは、殺戮それ自体でも犠牲者の数でもなく、『殺戮を行うために結集した人間の数』でさえない。殺戮を引き起こし、殺戮の遂行を機械的なものにし、もはや一切が意味をもたなくなるような死の世界を入念に計算して構築させたのは、他の何にもましてイデオロギー的な無意味さなのである」
 「真理を語ることは難しい。真理はなるほど一つしかない。だがそれは生きており、それゆえ生き生きと変化する表情をもっているからだ」(フランツ・カフカ)

 
 赦しは理解とはほとんど関係がなく、その条件でも帰結でもない。


 理解は誕生とともに始まり、死とともに終わる。

 理解は認識に先行し、また認識のあとにつづく。予備的な理解はあらゆる認識の基礎にある。真の理解は予備的な理解を乗り越えるものであるが、両者は一つの点を共有している。すなわち、両者は認識を意味のあるものにする。

 
 ポール・ヴァレリーは、現代世界におけるコモンセンスの破綻を最初に見抜いた人物
 コモンセンスが「事実によって攻撃され、反駁され、破壊された」。それゆえ、私たちは「ある種の構想力の破産と理解の破綻」を目の当たりにする証人となっている。

 
「人間というこの柔軟な存在は、社会にあっては、他人の思想や印象に順応するものであり、自ら自身の本性を示されるとそれを知る可能性もあるが、それが隠されるとそれについての感覚までも失う可能性がある」(モンテスキュー『法の精神』)
 
 
 聖書の言葉を私たちの言葉に近い用語に翻訳したいと思うなら、想像する力を「理解する心」の賜物と呼んでもいいだろう。何かを夢想するファンタジーとは違い、構想力は人間の心に独特の暗さ、リアルなあらゆるものを取り巻く特有の密度にかかわっている。私たちが事物の「本性」や「本質」について語るときはいつも、この最も深い核心のことをいっているのであり、私たちはその存在について暗さや密度のゆえに決して確信をもつことはできない。真の理解は、終わりのない対話や「悪循環」に倦み疲れることはない。なぜなら、真の理解は、構想力がつねに最後には驚嘆すべき真理の光を少なくとも垣間見させてくれると信じているからである。

 
 この種の構想力、そしてそこから生まれる理解がなければ、私たちはこの世界で私たちの重荷を担うことは決してできないであろう。

 
 全体主義は、自由の最も根源的な否定

 モンテスキューとカント

 全体主義的支配と暴君的支配

 イデオロギーは生を世界を説明する体系

 
 それが真であろうとなかろうと、それが真になるということが、イデオロギーを現実へと変える全体主義の根底にある信念なのである。

 
 嘘の世界秩序の一貫性

 孤立した個人だけが全体的に支配される

 テロルと論理性の原理が結びつくことで全体主義の本質をなす

 
 論理性は孤立した人間に訴える力を持つ。なぜなら、人間は──同輩たちとの接触なしに、つまり経験の何らかの可能性なしに完全に単独な状態にあるとき──推論の最も抽象的な規則しか頼れるものがないからである。

 
 「ひとが一人でいることはよくないから」神は男と女を創造した(ルター)。「見捨てられた孤独な人間はいつも一つのことから別のことを演繹し、すべてのことを最も悪い結論へと導く」

 
 単独であることにおいて私たちはいつも一者のなかの二者である。

 
 「単独であることは見捨てられた孤独な状態ではないが、容易に見捨てられた孤独な状態になりうるし、さらにもっと容易にそれと混同される。人びとが見捨てられた孤独な状態の絶望的困窮から脱して単独であることのなかに逃れ、自分自身との交わりのなかに逃れる強さを見いだし、そうすることによって自分を他の人びとへとつなげる結び目の裂け目を繕うことほど、難しく、稀なことはない。これが、ある幸せな瞬間にニーチェに起こったことである。彼はそのとき、見捨てられた状態についての偉大で絶望した詩を次の言葉で終えている。

 「正午に、一が二になり、ツァラトゥストラが仕上がった」
 (ニーチェ「シルス=マリーア」)

 


よろしければサポートお願いいたします!更に質の高い内容をアップできるよう精進いたします!