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読書ノート 「アルキビアデス クレイトポン」 プラトン 三嶋輝夫訳


『アルキビアデス』は、古来この表題でプラトン集成に収録されてきた二つの作品のうち、より規模が大きく、『アルキビアデス大』や『第一アルキビアデス』と称されてきたものである。この対話篇は「人間の本性について」という副題が添えられてきたことが示しているように、一個人としての「自己」を認識し、その魂のありようを理解すること、さらには「人間」一般というものを認識することを目的としている。あらゆる人にとって重要な、その認識を実現する唯一の方法こそ、言葉を用いて対話すること、つまり相互主体性の実践としての対話であることが、まさにこの対話篇で実践され、証明されている。その意味で、本対話篇はソクラテス哲学に触れようとする人にとって、最良の入門となるものである。

続く短篇『クレイトポン』には、古来「徳の勧め」という副題がつけられてきた。その名のとおり、ここではソクラテスによる「徳の勧め」(プロトレプティコス)が説かれるが、のみならず、この対話篇でクレイトポンはそれが「勧め」以上のものではなく、どうすれば実際に徳を身につけることができるのかを問い、その方法を教えることはできないのではないか、という疑問を提示する。その意味で、これは『アルキビアデス』で提示された道を限界まで問いつめた作品であり、二つの対話篇を併せ読むことでソクラテス哲学の神髄に触れることができる。

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 ソクラテスがアルキビアデスに「お坊ちゃん」と呼びかけるのが、莫迦にしているのか、子供扱いしているのか、たぶんどっちもだろう。正義と利益について説明しろとアルキビアデスに強い、そのめんどくさいやり取りに「傲慢だ」「尋ねられたことだけに答えろ」「嫌です」といったやりとりは、下品な痴話話に一歩間違えたらなりそうな会話である。誘導尋問を繰り返し、最終的にはその非整合性をあげつらい、自信をなくさせるという行為は、こりゃ恨まれてもしょうがないなあ。でもこれがソクラテスの議論のやり方、「産婆術」なのだろう。よく考えると危うい手法である。

 大いなるペルシアとスパルタ(ラケダイモン)を示して、アルキビアデスに自分の祖国と自分自身の卑小さを認識させることで、ギリシアの知恵と配慮に目覚めさせる姿は、島国日本と少し状況が似ていると言ってもいいかもしれない。我々には、中庸や徳が特性であり、個性とみなされるのだ。

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