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言葉の引き出しについて考えてみた

なにか言葉にしたいなあって時がある。
詩とか短歌とか、日記とか。Twitterのつぶやきとかもそう。
言葉を自分の中から出していく感覚も、そこで出てきた言葉をあとから見返した時の安心も、わたしにとって、とても心地いいものだから。


ただ、考えるときに自分を軸にしてしまうと、選ぶ言葉がいつも通りになりすぎてしまう癖があって(そしてそれを今まさにまた繰り返しそうだったので)、あえてそのこと自体を今日は書いてみようかな、と思った。


わかりやすいものだと、自作の短歌。よくこの単語を使ってしまうなーと自覚している単語がいくつかある。たとえば、「うそ」という単語。

「大丈夫」は見抜かれたくてついたうそだけどきみはただ「そう」とうなずく

どれほどのうそをついたら泥棒になれる?あの子のきみを盗める?

ためいきを吐くため吸った息を飲むいつもそうして嘘はうまれる


これは、「うそ」について考えて短歌をつくろうとして一緒のタイミングで生まれた短歌……というわけでは全然なく。それぞれ別のタイミングで作ったもの。

「うそ」のほかにもそういう、選びがちな言葉がある。「さよなら」とか「吐く」とか「ためいき」とか。
これは作風というより、癖というのが近い。
無意識にまたやっちゃった!みたいな感じ。
そのときに言いたかったことは言えてはいるんだけれど、なにか工夫が足りないのかも?みたいな不安がのこるこの感じ。

自分のエピソードや語彙力を、たんすや机などの引き出しにたとえて「引き出しが多い・少ない」って言うけれど。わたしの場合は引き出しの、よく使うものを手に取りやすいように入れてあるところから単語をすぐ取り出しちゃう癖がある。

逆に、自分の気持ちが大きく動いたことを言葉にするときとか、友達やすきなひとを思って言葉にするときとかは、わりとこの癖が出にくくなる。
自分の感じた気持ちとか、相手に伝えたい想いとかがあるときは、できるだけ正確に、的確に、言葉を選ぼうとしているようで。きっとしっくりとはまる言葉を探すように無意識にはりきっているんだと思う。

そのときのはりきりがある言葉はやっぱり、見返してみるとなんとなく違う。うるおっているというか、いつもよりパワーがあるというか。

はりきっていた時の短歌もあげてみる。
どんなときに考えたものか思い出せる3首。

わたしにもいろいろあった
きみだけが大人になったわけないじゃない

きみのこころ、そのまんなかにふれたくてわたしは手紙の言葉になった  

しあわせになれたらいいねまたどこかべつのだれかとふたりそれぞれ


「心がしっかり乗っているな!」「なんか、力あるな!」とあとから思える言葉って、やっぱりその言葉を考えていたときのわたし自身が集中していたか、集中したいくらいのこころがそこにあるかが思っているより本当にかなり影響している。気がする。

ただそれは感情的になれる日を待つと言う話ではなくって(そういう日って意外と年に何回もないので)。そのときそのときのわたしが、どんなテーマなら熱をもって言葉を探せるか?を、いったん自分に聞いてみるのがいいのかも?!って話。

今日は「なんか考えたいなあ」ってnoteのアプリを開いて、数分してから(なんかまたいつもと同じ言葉を使いそうだなー)って予感があった。その予感を見逃さずに「それ、考えてみて書いちゃお!」って書いてみたらここまで結構集中して楽しく書けた。
今日のわたしにとってはこのテーマで書いてみたのが最適解だったんだと思えるので、満足している。

それに、どんなテーマなら熱を注げるかどうか?って考えてみるって、こうして言葉にしないと気付けないままだったかも。
ちょっとコツというか、ひとつのやりかたみたいなものが掴めた気がしている。
これからのわたしの創作にまた期待!
自分で自分に期待!


明日はお休みだから、また何か考えたいなあ。


言葉を探すって作業がきっとわたしはすきなんだ。
わたしの言葉の引き出しにはまだ色々な単語が眠ってそうだから。それをまた、自分で確かめられたら。それができたら、とても楽しい休日になる気がする。


明日はまた、お気に入りの便せんをメモ帳代わりに、いつものブルーブラックのペンを持って、机に向かってうんうん考えて過ごそう。

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